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「聞く」ということ

  • 2008-11-06 (木) 18:55
  • 雑感

私は「再評価カウンセリング」という、人々が効果的に助け合う方法を学び、日本にそれを紹介するという仕事を、自分のライフワークにしている。

この理論や方法を、障害を持つ仲間に応用して「ピア・カウンセリング」も広げてきた。

この理論によれば、人間は本来、一人一人完全にすばらしく何の問題もなく、「生まれてきた」というその一点で尊ばれ、価値がある存在だと考えられる。

しかし、現実の社会で全くそうなっていないのは、あまりにもさまざまな「傷」があり、それが巨大化して抑圧となり、お互いに傷つけあったり、分断・排除しあったり、ついには戦争にさえなってしまう。

「傷」というのは、生まれてきたばかりの赤ちゃんにはほとんどない。しかし、周りから押し付けられた「男の子だから」「女の子だから」「障害を持っているから」「持っていないから」などの抑圧によって、どんどん分断され、その上一定の年齢になると、傷ついた感情を中に溜め込むことを要求されるので、更にますます考えられなくなっていく。

「傷ついた感情」とは、悔しさや悲しさや辛さ、恥ずかしさ、痛みなどであるが、笑いや涙や震えることによってそこから回復して行けると私たちは考えている。

それを「聞きあう」ということを使って、傷ついた感情が心と体から外に出るように時間を分けて聞きあっていくために、またの名を「コウ・カウンセリング」とも呼ばれている。

この話を書いていくと長くなるので、この辺にしておくが、今日書きたいのは、「聞く」ということがどんなに大切かということだ。

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最近、二人の人から話を聞いた中でのことである。

一人は企業社会に今年の四月からガンガン働いている私の友人が教えてくれたことだが、
彼女は頭では、「福祉を勉強してきたわけだから、企業社会での働き方や自分の生活が、どれほど命から遠ざかった、命を大切にしていない生き方か良くわかっているが、それを外から少しでも指摘されると聞けなくなってしまう自分がいることに気づいた」ということだ。

そしてもう一つ、アメリカの友人(ここでは仮に私の友人をMさんとする)の友人の話であるが、そのMさんの友人は精子バンクから冷凍精子を買い、郵便で配達されたものを一回目の人工授精で成功し、今子どもが四歳であるということだった。

話を教えてくれたMさんは、その友人が精子銀行から精子を手に入れる前にありとあらゆることを忠告したが効き目はなく、最後にはその友人の話を良く聞き、結論として、今はその四歳の子どもも含め、前と変わらずにいい友人関係でいるという。

彼女はもちろん人工授精には反対で、さまざまに忠告をしたのだが、聞き入れられず聞き役に回っていく中で、彼女の辛さや絶望がよく分かり、私に彼女の話を私に伝えてくれたときも、一言も非難がましい口調はなかった。

多分、Mさんはその友人に対して、そして子どもに対しても、本当にいいサポートをしているのだろうと想像できた。

企業で働いている友人と、Mさんの話を聞きながら、あまりにも価値観の違う人に対して、私たちは容易に自分の意見を押し付けてしまうのだということを再確認した。

企業社会で働くということは、ある意味自分の体を痛めつけるところに否が応でも追い詰められやすいわけで、それを心からいいと思っている人はいるわけはない。ただ、働かないと生活できないという巨大な不安や恐怖を連綿と歴史的に押し付けられ、その上社会保障の非常な貧しさとがあいまって、苦渋の決断としてそこにいる人が多いと思うのだ。

まして出産でもすれば、女性はやりがいのある仕事であっても子育てとの両立で難しいところにめちゃくちゃ悩まされる人が多い。

まして地球環境とか福祉の現実とかを知っていればいるほど、企業の提供する仕事がすばらしいとだけは思えないと気づいている人も多いだろう。そういう中で、私が「農業や福祉の仕事をやってよ」とか「もっと体を大事にしてよ」といい続けても、多分彼女を追い詰めることになってしまうだろう。

二人目のMさんの友人に対しては、私なら忠告をしまくって思わず友情まで危うくなりそうな気がする。大体、精子バンクから自分の大事な友人が精子を買って子どもを生むなどというのは、今の私の現実の中では発想できないから、呆然としてしまい、呆然とした挙句に聞き役になることはすっかり諦めてしまいそうだ。

しかし、精子バンクという優生思想の極みに作られたところを利用する人も確かにいるのだ。なぜなら、存続し続けていることが何よりの証拠だ。存続しているだけでなく、日々インターネットなどで世界中に情報を流し続けているのだから。

それが私の友人にいてもおかしくはない。

しかしその時私がどれだけ徹底的に聞き役に回り、最終的に彼女を理解し、サポートにまで回れるか、どんなに自分の価値観と違っていても非難しないで聞き続けることの大切さを、特にこの話からはしみじみと感じた。

私は、助け合い分かち合う社会を真剣に模索し続けてきた。「聞く」ということは、そのための確実な一歩だと思っている。

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