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死刑について

昔から死刑制度に反対だった。中学1年か2年の時に高校3年生のいとこと大激論をした。彼女は弟がその当時、いわゆる非行少年だったので、もし彼が罪を犯したら死刑になってもしょうがないというようなことを言って、私を驚愕させた。どんな人でも死刑になっていい人がいるとは当時の私にも直感的に全く思えなかったので、彼女の冷たい口調に驚いたのだった。激論の中で私は母が、もし私が死刑判決を受けるような罪を犯しても絶対私を助けたいと願い、被害者の人に土下座し裁判官にも頼みまくりついには私を連れて逃げまわるだろうと彼女に言ってのけ、彼女に馬鹿にされてその議論は終わった。

しかし今考えれば私の直感も正しかった。犯罪が起こるベースには幼児期から10代20代にかけてのすさまじい孤独があって、その孤独は全く個人の責任ではない。社会がその人に手を差し伸べられなかった結果としてあるものだから、個人の罪を問うことは大事でも、死刑を容認することは社会全体の大犯罪である。

先日19歳の少年が裁判員制度で死刑判決を受けた。朝刊でその記事を読んで、私はそのあと何度か泣いた。私たち障害を持った人はある意味、身体的な自由の利かなさゆえに、適切なサポートと愛情のない社会に生きたら、どんなひどい目に合うかをよく知っている。反対に言えば適切なサポートと愛情あふれる社会さえあれば、身体的な自由は完全に補われて行くといっても過言ではないことも知っている。それを実現しようと何十年も、そして今も障害を持つ人の運動の中で頑張っている。しかしこの社会は立場的に弱いところに置かれた人に対して、年ごとに厳しくなっている気もする。その一つがこの若い未成年者に裁判員制度で行った死刑判決だ。

裁判員という人たちはつまり市民である。市民がよく知りもしない状況に対して、その人の命を強奪する死刑判決を行う背景を考えると本当に辛い。その死刑判決を出した裁判員の一人ひとりを責めたくないが、のちのちどれほど後悔することになるか。もし後悔しないのであれば、どれほどの感覚麻痺が市民レベルに起こっているかということだ。

感覚を麻痺させて生き延びなければ生きられないのだよ、ということをこの圧倒的な資本主義社会、消費市場主義社会、もの依存社会である日本は確かに言い続けている。しかしだからこそ本当に生き延びる道は、感覚を麻痺させることではなくて自分の精神的・身体的痛みに気づきそれを言語化し周りの人に伝え、お互いに助け合っていくことなのだ。もし自分の心の痛み、身体の痛みにきちんと向き合うことができれば、死刑制度の存続はありえないだろう。

昨日死刑制度の反対集会に行ってきた。19歳の少年が受けた死刑判決にどれほどの若い人が自分の問題だと共感して、想像力をたくましくして集まってくるかと思ったが、残念ながら宣伝の問題や運動のかたくななイメージやパターンがあちこちに顔を出していて集まったのはやはり年配の人がほとんどだった。

若い人に死刑制度も、障害を持つ人を隔離する制度も、他人事ではなく自分の問題でもあるのだよと私たちはどこまで伝えていけるのだろうか。自分の焦燥感や無力感からではなく、若い人たちにこの社会は変えられるという希望を心から心から伝えていきたい。

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