- 2009-06-16 (火) 23:12
- 思うこと
先日は臓器を求める側の親に対しての気持ちを書いた。今日は医療関係者に対しての思いと考えを書く。
まず医療関係者と一口に言い切ってしまったが、一人一人医療を志した思いも背景も違うわけだし、臓器移植に対しても個々人の考え方はいろいろあるに違いない。ここで私が訴えたい人たちは、臓器移植について賛成あるいは若干の疑問を持ちながらも、賛成せざるを得ないと考えている人たちへ、なのだ。
賛成だと考えている人たちは、なぜ賛成なのかを問いたい。脳死段階で取り出せばまた生き返る臓器を、みすみす無駄にするよりは、その臓器で助かる命があるなら助けたほうがいいということなのだろうか。
こういう考え方は効率主義的で、いかにも賢そうに思える。
しかし何度も繰り返すが、本当の効率主義を考えるなら、脳死段階からの回復を考えたほうがずっと論理的だといえる。
その論理の正当性は、医療の場にいる人の方が多くの情報を持っているに違いない。だからここで詳しくは触れないが、なぜか脳死状態の人を徹底的に可哀想だと決めつけて、臓器を取り出そうとする動きは医療の場にいる人の方が更に激しい。なぜだろうか。
日本は所謂、先進国と呼ばれる国々の中でも、薬害の被害を繰り返し続けている国だ。
私の記憶だけでも、サリドマイドやキノホルム、HIVの血液製剤や、最近のリタリンやタミフル、SSRIなど、人間の命を薬害に奪われても奪われてもなぜこんなにも気付けないのだろうか。そこにあるのは医療を金儲けの道具にしようとするシステムのありようだし、それがおかしいと思いつつも、巻き込まれ続けている製薬会社の関係者や医療者達がいる。臓器移植はどう考えても、どう抗弁しても沢山のお金が動くことは間違いない。臓器移植を成功させたとしたら、お金だけでは無く、名誉も研究欲も満足するし、達成感も深くなるだろう。
しかし、だからこそそこで考え続けて欲しいのだ。人間の命は非常に繊細で、そして同時にダイナミックではあるが、一度失われれば二度と戻りはしないのだ。その命と共にあった人にとっては、臓器をあげたことでその人の一部が生きているから満足すべしと言われても、医療者ほどには満足は出来ないだろう。勿論医療者自身も、自分の家族や、自分が脳死状態になったら即臓器をあげようとは簡単には思えないだろう。臓器移植をしたとしても、延命率は60%だと聞く。その延命も、1年なのか2年なのか、10年までいっているのか、確実な統計はまだどこにもないだろう。
臓器移植を考え行動する前に、脳死状態からの回復を医療者こそが真剣に考え、研究してほしい。人間の体はロボットの様にパーツを寄せ集めて、動いているのではなく、命の全体性があって生きている体となっている。そのことを誰よりも知っているのは、人間の体に向き合い続けている医療者自身に他ならないのだから。
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