- 2009-06-04 (木) 15:46
- 思うこと
臓器移植法案をめぐって、国会審議が始まろうとしている。
改正法案の中、特にA案を支持している議員が多いと聞いて驚いた。「脳死を人の死と完全に認め、子供であっても親の同意さえあれば臓器移植を認める」というこのA案には、問題がいくつもある。
まず脳死を人の死として認めるのが適当かどうかという点だ。脳死と判定されながらその後完全に回復した人も何人もいるし、意識が回復しないままであっても、体が成長しつづけた子供の記録もある。脳死状態にある人を回復させるほうが、臓器を取り去ってしまうよりずっと利にかなっていると思うのに、なぜか臓器移植という究極の選択の方に注目もお金もエネルギーも集中しているのはどういうカラクリがあるのだろう。
かつて私の母がくも膜下出血で脳死状態になったとき、私は暖かい体の母にすがり付いて泣き続けられたので、母が死んでいるということは全く受け入れられなかったし、受け入れなかった。二十歳の時から重い障害のある人にも生きる権利があるのだと活動し続けてきた私にとって、脳死状態の母は私と共に活動しつづけてきた重い障害を持つ仲間でしかなく、もし彼女がそのままの状態でいてくれたなら人口呼吸器ごと家に連れて帰ったに違いない。しかし残念ながら母は6時間後には心停止状態となり、体は少しづつ冷たくなり、硬直していった。
脳死状態の回復をこそ徹底的に語るべきなのに、なぜ臓器移植という生命倫理を徹底的に混乱させるような議論を積み重ねているのだろうか。そこにはやはり、命を市場化する経済論理が丸見えだ。
特に子供の移植が出来ないからといって、海外にわが子を連れて出ようとする親子の姿をニュース等で繰り返し報道していることが気にかかっている。その裏には何があるのだろうか。
脳死判定された子供から使える心臓や肝臓を取り出すわけだが、もしその脳死判定が誤りであったり、もしかしたら時間をおけば回復するということが分かっていたら、それでも自分の子供にその子からの心臓が欲しいと親は望むのだろうか。
臓器移植を求めて海外にわが子を連れて行く親の想像力は、経済市場主義の社会によって完全にブレーキをかけられている。この社会はお金がないと生きられないという思いで満ち満ちていて、貧しい子供の親は「この子はどうせ生きられないのだから」と、わが子の健康な臓器をお金のある人に売るだろうことも数多くあるのだ。あるいはお金に目がくらんだ人が、まずしい子供を誘拐し臓器を取ってしまうことも、「闇の子供たち」という映画や小説で知られてきている。
昔は子供を身代金と引き換えに売り、子供は労働力を提供することで命だけは生き延びることが出来た。しかし、現代の人身売買の恐ろしい点は、命まで容易にとられてしまうという点だ。
どうか重い心臓病や肝臓病を持った子の親たちに言いたい。自分の涙で泳げるくらいに泣いてもいいから、脳死の子や貧しい子の命を奪っていいとするこの法案を皆さんこそが反対して欲しいと。子供たちは自分の身体も過酷な運命も親の本物の愛情さえあれば必ずや乗り越えていける。結論が死であってさえも。誰かから奪い取った健康な心臓と共にいくばくか生きながらえたとしても、それがその子が本当に望んだ人生とは、私には全く思えない。
私は自分もわが子も、他の人が全く望まないだろう障害を持った体で産まれてきた。親は私が骨折するたび、「自分が代わってあげられたら」とぽろぽろ泣いていた。私もまた娘が骨折する度に、「自分だったら良かったのに」と涙する。
しかしだからこそ、命が脅かされたら、自分がどんな風に感じるかも想像力の範囲内で考え、思うことが出来る。
結論は、私も親も、自分の命に代えても助けたいとは思うけれど、他の子の命は決して脅かしたくない、ということだ。
なぜならその臓器提供する子の親も、脳死状態から、貧しさから徹底的に回復したいと思っている親に違いないのだから。
次回は臓器提供をめぐる親たちへだけではなく、このことをめぐっての医療関係者に向けての思いを書いていきたい。
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