- 2010-02-15 (月) 17:42
- 思うこと
私は教育という言葉が好きではない。教育の「教」が共に育つ「共」ならば、あるいは、協力の「協」なら本来の人間にふさわしい言葉だと思うが、子供たちに教えたいほどのものを大人たちはどれほど真摯に持っていると言えるのだろうか。ちなみに英語のeducationは、‘引き出す’という意味で上からものを教えるという意味ではないそうだ。
20年くらい前、私のかわいい甥っ子たちが次々に登校拒否をしたとき、私の妹は最初とてもパニクッていたが、半年も経たないうちに子供たちとたくさん遊んだり学んだりできるので、これもなかなかいいかもしれないと言っていた。私も、自分の車いすを押してくれる優しい甥っ子たちだし、あちこち一緒に行けたので、学校に行かなくなったことをあの時は喜んだものだった。
妹はその後、不登校の子の親たちと一緒にフリースペースを作り、私はそこに集まってきた子供たちの中の少年一人と甥っ子一人を連れて、ニュージーランドとオーストラリアのフリースクールや、地域の学校を3カ月かけて回るという旅をした。この旅のことも書き出せばたくさん書けるが、今日は私が欲しい子供たちの学びの場について書きたい。
私の望む学校は木造で、せいぜい2,30人くらいの違年齢の子供たちが自分の好きな勉強を大人のアシスタントを得て好きなように進めることができる場でありたい。そして、今ある学校の校庭や建物の代わりにそこにたくさんの木を生やせば、地球環境の悪化を防ぐだろうし、子供たちの学びの場として森は最適だ。
その小さな学校の最も重要な理念は多様性と平和で、障害のあるなしや肌の色の違い、言葉の違いを超えて、一緒に仲良く生きるにはどうしたらいいかを個別の学び以上に互いに探っていく。
もともと子供たちは、本来は平和主義者だ。主義者と言うより、人間は妊娠から自力歩行をし、コミュニケーションを取り、いわゆる独り立ち出来るまで4,5年もかかる生物だ。そんなに長い年数を人の手を信頼し続けて、成長する生物は他にない。だから、人間は本来的に平和、信頼、愛という素晴らしい側面を持ち続けている生物なのだ。
にも関わらず、人間ほどわけのわからない残酷な生物もいない。同族で殺しあうことは、他の生物にはほとんどまったくと言っていいほどないのに、人間だけが歴史上繰り返し争い続け、互いに殺しあってきた。この歴史を、平和と愛に転換するためにはどうしたらいいのか。そこにこそ、私の考える学びの場の必要性がある。 本来人間は、先ほども言ったように、平和でなければ生きられないことを知っている動物なのに、繰り返しの争いで、恐怖が全ての人の心に沁みついてしまっている。例えば争いの始まりである罵声や怒声を聞くと、ほとんどの人は凍りついてしまい、何も声が出せなくなってしまう、逃げるとか少しは止めてみようとかの的確な対応が取れなくなる。
しかし、そうしたときに小さな子供だったら泣きだすことができる。泣いて泣いて、その罵声や怒声を浴びせた人を憎むことなく許し続けて成長していく。私がほしい学びの場にはこの若い人たちの声を徹底的に聞くというプロセスをぜひ持ち込みたい。
人間に備わっている自然治癒力は身体にあるだけではなく、心にもある。涙や笑いや、震えやあくび、これらは心の自然治癒力なのだ。共に育つ場でこの力をいっぱい活かし、信頼と愛と平和を永続的に実現していくことこそ正しいきょういく(教え育つではなく共に育つという意味での)であるに違いない。
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