- 2009-04-05 (日) 10:03
- 子育て
娘が小学校を卒業した。
この7日には中学生になる。
卒業式に行って、あまりの画一性に度肝を抜かれた。
私は「人間が人間であることの素晴らしさの一つは、「多様性を互いに認め、尊重できる力」と思っているが、
その多様性を一つの型にはめたいという意志をあちこちに感じた式だった。
子どもたちがどんな歩き方でも、どんな声でも、それぞれらしさが出ていれば味わい深いものであるだろうに、子どもたちは大人の愛にこたえようと必死で大人の期待にこたえていく。
それがしみじみ悲しかった。
教員たちの自由裁量が認められ、もっともっと柔軟な力が発揮できれば、どんなに楽しい式になったかと思うと残念だった。
障害を持つ子が生まれるということは、人類の必然だ。
他の生物でも障害を持って生まれたら、本能的な弱肉強食のありかたに負け、重い障害を持つ仲間が生きていられているというケースは聞かない。
その中で人類が重い障害を持つ人とも共に生きられるのは、人類の中に備わる深い人間性、知性という資質のなせる業としか言いようがない。
しかし、この人間性、知性が、教育の中で上手くはぐくまれていないことは、誰の目から見ても明らかだろう。
しかし、心ある教員たちは、日本でも世界でも、障害を持つ人達と共に生きる教育を選択し、実践し続けてきた。どんなに厳しい状況の中であっても、彼らのふんばりがあちこちに豊かな芽を出し、子どもたちの人間的成長を保障してくれた。
それが今では、世界の潮流ともなり、障害者の権利条約にも大事な条項として書き込まれた。
私が望む理想の学びは、子どもがあくまでも主体的な意志で学ぶというものであり、形としてはサドベリースクールというところを知ったとき、私の考えと近いと思ったものだった。
究極を言えば、子どもは多くの大人たちに見守られて育ち、自分たちの意志で遊びの場も学びの場も創出できる存在だと信じている。
もちろんそのための建物や空間は、大人たちが心して提供しなくてはいけないだろうし、子どもたちが大好きな共にいる大人たちの存在も欠かせないだろう。
しかしその大人は、「こんなことができるよ」「あんなこともできるかも」と提案はしても、「あれをしよう」「これをしよう」と押し付ける必要はないだろう。
そのためには、何と言っても人類の発祥の地である偉大な自然が、子どもの豊かな学びの場として圧倒的に必要だ。
その点から見ても、前回書いた「日本熊森協会」の活動は、とてつもなく重要だ。
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