多様性の宇宙へ
臓器移植について
- 2009-06-04 (木)
- 思うこと
臓器移植法案をめぐって、国会審議が始まろうとしている。
改正法案の中、特にA案を支持している議員が多いと聞いて驚いた。「脳死を人の死と完全に認め、子供であっても親の同意さえあれば臓器移植を認める」というこのA案には、問題がいくつもある。
まず脳死を人の死として認めるのが適当かどうかという点だ。脳死と判定されながらその後完全に回復した人も何人もいるし、意識が回復しないままであっても、体が成長しつづけた子供の記録もある。脳死状態にある人を回復させるほうが、臓器を取り去ってしまうよりずっと利にかなっていると思うのに、なぜか臓器移植という究極の選択の方に注目もお金もエネルギーも集中しているのはどういうカラクリがあるのだろう。
かつて私の母がくも膜下出血で脳死状態になったとき、私は暖かい体の母にすがり付いて泣き続けられたので、母が死んでいるということは全く受け入れられなかったし、受け入れなかった。二十歳の時から重い障害のある人にも生きる権利があるのだと活動し続けてきた私にとって、脳死状態の母は私と共に活動しつづけてきた重い障害を持つ仲間でしかなく、もし彼女がそのままの状態でいてくれたなら人口呼吸器ごと家に連れて帰ったに違いない。しかし残念ながら母は6時間後には心停止状態となり、体は少しづつ冷たくなり、硬直していった。
脳死状態の回復をこそ徹底的に語るべきなのに、なぜ臓器移植という生命倫理を徹底的に混乱させるような議論を積み重ねているのだろうか。そこにはやはり、命を市場化する経済論理が丸見えだ。
特に子供の移植が出来ないからといって、海外にわが子を連れて出ようとする親子の姿をニュース等で繰り返し報道していることが気にかかっている。その裏には何があるのだろうか。
脳死判定された子供から使える心臓や肝臓を取り出すわけだが、もしその脳死判定が誤りであったり、もしかしたら時間をおけば回復するということが分かっていたら、それでも自分の子供にその子からの心臓が欲しいと親は望むのだろうか。
臓器移植を求めて海外にわが子を連れて行く親の想像力は、経済市場主義の社会によって完全にブレーキをかけられている。この社会はお金がないと生きられないという思いで満ち満ちていて、貧しい子供の親は「この子はどうせ生きられないのだから」と、わが子の健康な臓器をお金のある人に売るだろうことも数多くあるのだ。あるいはお金に目がくらんだ人が、まずしい子供を誘拐し臓器を取ってしまうことも、「闇の子供たち」という映画や小説で知られてきている。
昔は子供を身代金と引き換えに売り、子供は労働力を提供することで命だけは生き延びることが出来た。しかし、現代の人身売買の恐ろしい点は、命まで容易にとられてしまうという点だ。
どうか重い心臓病や肝臓病を持った子の親たちに言いたい。自分の涙で泳げるくらいに泣いてもいいから、脳死の子や貧しい子の命を奪っていいとするこの法案を皆さんこそが反対して欲しいと。子供たちは自分の身体も過酷な運命も親の本物の愛情さえあれば必ずや乗り越えていける。結論が死であってさえも。誰かから奪い取った健康な心臓と共にいくばくか生きながらえたとしても、それがその子が本当に望んだ人生とは、私には全く思えない。
私は自分もわが子も、他の人が全く望まないだろう障害を持った体で産まれてきた。親は私が骨折するたび、「自分が代わってあげられたら」とぽろぽろ泣いていた。私もまた娘が骨折する度に、「自分だったら良かったのに」と涙する。
しかしだからこそ、命が脅かされたら、自分がどんな風に感じるかも想像力の範囲内で考え、思うことが出来る。
結論は、私も親も、自分の命に代えても助けたいとは思うけれど、他の子の命は決して脅かしたくない、ということだ。
なぜならその臓器提供する子の親も、脳死状態から、貧しさから徹底的に回復したいと思っている親に違いないのだから。
次回は臓器提供をめぐる親たちへだけではなく、このことをめぐっての医療関係者に向けての思いを書いていきたい。
娘の卒業式
- 2009-04-05 (日)
- 子育て
娘が小学校を卒業した。
この7日には中学生になる。
卒業式に行って、あまりの画一性に度肝を抜かれた。
私は「人間が人間であることの素晴らしさの一つは、「多様性を互いに認め、尊重できる力」と思っているが、
その多様性を一つの型にはめたいという意志をあちこちに感じた式だった。
子どもたちがどんな歩き方でも、どんな声でも、それぞれらしさが出ていれば味わい深いものであるだろうに、子どもたちは大人の愛にこたえようと必死で大人の期待にこたえていく。
それがしみじみ悲しかった。
教員たちの自由裁量が認められ、もっともっと柔軟な力が発揮できれば、どんなに楽しい式になったかと思うと残念だった。
障害を持つ子が生まれるということは、人類の必然だ。
他の生物でも障害を持って生まれたら、本能的な弱肉強食のありかたに負け、重い障害を持つ仲間が生きていられているというケースは聞かない。
その中で人類が重い障害を持つ人とも共に生きられるのは、人類の中に備わる深い人間性、知性という資質のなせる業としか言いようがない。
しかし、この人間性、知性が、教育の中で上手くはぐくまれていないことは、誰の目から見ても明らかだろう。
しかし、心ある教員たちは、日本でも世界でも、障害を持つ人達と共に生きる教育を選択し、実践し続けてきた。どんなに厳しい状況の中であっても、彼らのふんばりがあちこちに豊かな芽を出し、子どもたちの人間的成長を保障してくれた。
それが今では、世界の潮流ともなり、障害者の権利条約にも大事な条項として書き込まれた。
私が望む理想の学びは、子どもがあくまでも主体的な意志で学ぶというものであり、形としてはサドベリースクールというところを知ったとき、私の考えと近いと思ったものだった。
究極を言えば、子どもは多くの大人たちに見守られて育ち、自分たちの意志で遊びの場も学びの場も創出できる存在だと信じている。
もちろんそのための建物や空間は、大人たちが心して提供しなくてはいけないだろうし、子どもたちが大好きな共にいる大人たちの存在も欠かせないだろう。
しかしその大人は、「こんなことができるよ」「あんなこともできるかも」と提案はしても、「あれをしよう」「これをしよう」と押し付ける必要はないだろう。
そのためには、何と言っても人類の発祥の地である偉大な自然が、子どもの豊かな学びの場として圧倒的に必要だ。
その点から見ても、前回書いた「日本熊森協会」の活動は、とてつもなく重要だ。
自然保護運動と障害者運動
- 2009-02-19 (木)
- 感動したこと
1970年代のはじめごろだったと思うが、「ローマ白書」という環境汚染に関する新聞記事を読んだ。21世紀が来る前に核兵器や石油の枯渇や人口の爆発で地球の未来は絶望的というような事が書いてあった。10代半ばの頃だったので、あまりの衝撃を誰にも語れなかったことを覚えている。20代始めの時には、福島県の地元にある原発がどれほど危険かを何度か講演会で聞いて、鬱々となった。
しかし、それ以前に障害を持つ自分たちの人権を確立し、地域に自立することが、まずわたしにとっては重要と考えた。そして、そのための活動に邁進した。なぜなら、同じ死や恐怖に晒されるにしても、施設という排除隔離された場所での死や恐怖はさらに屈辱や絶望も倍加される。とりあえず自然保護や、環境の問題は、障害のない人たちに任せておこうと思ったわけだ。
もちろんその間でも、やれることはやろうと考えた。チェルノブイリの大事故の後、日本の暴走する原発政策を止めるよう圧力をかけて欲しいと14,5カ国の首相や大統領あてに個人的に手紙を出したこともある。カナダとニュージーランドとオーストラリアから返事が来て、自分で出していながらも全く期待していなかったために、驚いたこともある。それぞれの国の答えはもちろん、内政干渉になるのでそちらの方で頑張って欲しいというのみだった。
また環境破壊の最たるものである戦争に対しても、障害を持つ人の運動と同時に出来ることはしようと平和の問題にも取り組みつづけてきた。
湾岸戦争の直後には90億ドルの戦費を返せという裁判を起こした原告団にも加わったし、最近では世界9条会議にも30人くらいの聞きあう方法を使って平和を作ろうという仲間と共に参加した。とにかく出来ることは何でもしようと考えている。
最近私のそうした気持ちや行動力と同じような情熱を持って、自然保護運動に邁進している人と出会った。日本一の会員組織を誇る実践自然保護団体「日本熊森協会」の森山まり子さんである。
日本熊森協会の設立と活動については「クマともりとひと」という小冊子が非常に面白いので詳しくは是非そちらを読んで欲しい。またホームページもあるので是非訪れて欲しい。
http://homepage2.nifty.com/kumamori
私がこの小冊子を手にしたのは1月の半ばくらいだったと思う。ホームレスの当事者の人が街頭で売っている「ビッグイシュー」という雑誌があるのだが、そこにこのグループのことを森山さんが紹介していた。私は読んですぐに「この人は本物だ」と直感した。だから、この小冊子を電話でまず30冊注文、その五日後には100冊を注文していた。小冊子をまず読んだのは娘だった。
娘の宇宙も環境問題には以前から非常に関心を持っていたので、これを読んで私が読む前に入会葉書を切り取り、「会員になるよ」と、すぐに投函していた。あまりの行動力に感化されて、わたしもまた会員呼びかけに発奮し、約一ヵ月後の2月11日には、森山さんに会いに行った。約4時間半の会っているあいだ中、わたしも森山さんも、わたしの夫の石丸も、そして最後の一時間には、森山さんのパートナーの昭典さんも、とにかくよく聞き、よく話し、よく笑い、よく泣いた。久しぶりに、この社会をこんな風に変えたいと、明確な構想を持ち、大いなる使命感に動かされて活動している仲間に出会えたという、感動的な出会いだった。
わたしは、人間の都合で静かで美しい奥山を追い出されて、殺されてしまう、ツキノワグマとこれまた勝手な人間の都合で、お腹の中でチェックされて生存権を奪われてしまう障害を持つ胎児が、話を聞く間中、重なって重なって、涙が流れて仕方がなかった。
特に、この熊森協会の立ち上げのときの中心的メンバーだった中学生たちが「大人たちは戦後、少しでも生活がよくなるようにと考えてやってきたんだけれど、その結果が今間違っただけだから変えればいいんだよ」と大人の失敗を責めずに次々とアイディアを出して行動し続けたと言う話しには深く深く共感した。
障害を持つわたし達の運動も、養護学校や施設で分けられることを拒否することから、まず立ち上がった。しかし、行政の分離や隔離政策を責め続けるのではなく、地域の中で生きるための介助料の獲得や、所得保障の整備、街構造の変革など、ありとあらゆることをやってきた。ともすれば、障害を持つ人たちの運動も、能力主義に陥りがちだ。つまり「○○ができるから、差別されるのはおかしい」とか、「大学にも行けるのだから、大学を整備せよ」とかなどである。
ツキノワグマも重い障害を持つ人も、存在そのものに大いなる意味がある。もちろんその存在がどんな風に役に立っているかを、科学的に述べていくことも可能だ。しかし、今ここで分かっていることは、どんな生命も生物も大いなる自然の一部で、いけとしいけるものは全て、存在そのもので正しいという事なのだ。
わたしの中では、自然保護運動と障害を持つ人の運動は、全く同じ方向を向いている。これからもできることの全てをやり続けるのみだ。
「泣いていい」ということ
- 2008-12-24 (水)
- RC
私は小さい時からよく泣いてきた。
度重なる骨折と、あまりにも痛い手術で、幼い頃はしょっちゅう涙が涸れるほど泣いた。
私も泣いたが、母も本当によく泣いて、私たちは泣くことで生き延びてきた。
ところが、それを肯定する情報が世の中にはまるでなかった。
泣きながら、泣いている母を「弱い」と思い、自分のこともどこかで「おかしい」と感じ続けてきた。
周り中から「泣くな」という目で見つめられていた気がするが、「泣くな」と言われて泣かないでいられるほど状況は優しくなかったから、それでもよく泣いた。
31歳で東京に移ってきて、その一年後ぐらいに再評価カウンセリングの基礎クラスに行った。
英語で学んだので理論的にはほとんどよくわからなかったが、一言、「It’s OK to cry」と言われたのには驚いた。
そう言われて15分くらい、次から次に涙が止まらず、イメージの中で医者たちに「やめろー!」と言いながら号泣し続けた。
15分が終わった時、カウンセラーに優しく「もう終わりだよ」と言われて、「こんな号泣が止まるのか?」と一瞬思ったのだが、涙はすーっとひいた。
クラスが終わってから、だんだん考えていくうちに、からだが医療から受けた治療に対してまだまだ怒っていることに気づいた。
そして、その怒りが医者とよく似た年齢の男性に対する嫌悪にもつながっていることにも気づいた。
私たちは、泣いたり笑ったりあくびをしたり、震えたりたくさん汗をかいたりした後に、新しい認識、評価を自分の過去に対して得る。
「再評価カウンセリング」と言われるゆえんは、ここにある。
私は、それまで中年の男性全般が苦手だと思い込んでいた。
しかし、その理由、原因は理解できずに生きてきた。
理解できなかったがゆえに、時にはひどく生きにくいことも起こった。
中年の男性に対して、ある種の怒りや、嫌悪を持ってしか出会えなかったのである。
ところがこの号泣以来、再評価が始まり、その後、何人かの中年の男性と友人にもなることができた。
深い涙は、思考を明晰にするために必要な回復へのプロセスなのである。
この理論は、どの人にも適用される。
赤ちゃんからお年寄りまで。あるいは、人種や民族の違いも超えて、もちろん男性と女性の間にも壁はなく、傷ついた感情を涙や笑いにして解き放つことで、よく考え、行動するということが可能になるのである。
それを知ってから、私の人生はとても生きやすくなった。
どのように生きやすくなったかは、今後また書いていく。
私はなぜ書くのかを考えた
- 2008-12-15 (月)
- 雑感
今、本を出そうと計画しているし、このブログも今までにないペースで書いている。
もともと筆まめなほうだが、ここでつくづくとなぜ書くのかを考えている。
私は私の身体を持って生まれてきたことで、数々のユニークな情報や人との出会いに支えられて生きてきた。
その中には、有益で普遍的で誰にでも等しく役にたつものがたくさんある。
それを分かち合いたいと心から思って書くのだということがわかった。
分かち合うということは、人間が生物として生き延びるために最も
本質的で賢明な方法だ。過酷な狩猟時代を生き延びた人類が多様な生物の中で
圧倒的に優位にたてたのは、この分かち合いを始めたからだろうと思う。
分かち合うことによって、自分以外の人たちの命が生き延びていくことを認識した時が
愛するということの始まりかもしれない。
分かち合うというプログラムは人類のDNAの本能という形質の中に
もともと入っていたのかも知れないが、本能だけではない部分にも発展し、
人類を万物の霊長たらしめてきたに違いない。
では次回からはどんな有益な情報を分かち合おうとしているかを
書いていく。
穂高養生園のこと。
- 2008-11-17 (月)
- からだに優しい暮らし
穂高養生園に足を運ぶようになって以来、20年近くになった。
養生園のオーナーの福田さんや、スタッフの人たちとも、親しいお付き合いをさせていただいて、互いにかけがえのない友人となっている。
穂高養生園は、ホームページを見てもらえば一番詳しいが、
玄米正食や温泉という、リラックスするために私が大好きなものがたくさんあるところで、
年に何度かは訪れたい場所だ。
ここ数年は「再評価カウンセリング」の紹介セミナーなども開催してきた。
紹介クラスの仕事だけではなく、雄大な自然に出会い、リラックスするためにもっと訪れたいのだが、
何かとやりくりがつかず、今年も12月のクラスの訪問のみとなってしまった。
20歳の時から私は玄米を食べ、西洋医学ではなく、東洋医学的なアプローチを心掛けてきた。
それらの学びの集積と体の声の赴く先として、穂高養生園に巡り会えた。
今は亡き母を、一度連れて行ったこともある。
また、そこで出会った心やさしい友人たちとのさまざまな出会いや別れの数々も、心に深い糧となっている。
今年も最後にまたどのような嬉しい出会いがあるのかが楽しみだ。
精神に障害を持つとされる人々と共に
- 2008-11-17 (月)
- 自立生活運動
私は1956年2月生まれの52歳。
この年に、日本の経済白書に「戦後は終わった」と書かれたという。
戦後、大地主制度が瓦解し、敗戦の壮絶な貧しさの中から出て、日本社会は競争が苛烈な自由経済市場となった。
その成果が、56年の経済白書に表れて、高度経済成長に突き進む記念の年だったのだろう。
その後、東京オリンピックがあり、ベトナム戦争があり、私の近所の風景も少しずつ変わっていった。
昭和40年代初めの「always 三丁目の夕日」のような風景の中に、私もいて、その頃には「精神障害」と呼ばれる人たちは地域の中でまだ「不審者」とも「おかしな人」とも呼ばれず、もちろん肩身は狭かっただろうけれども、共に過ごしていた。
特に私の左隣の家の人たちは、今から考えると「統合失調症」と呼ばれる人が、6人家族の中に3人もいて、しょっちゅう壮絶な罵声や物や人のぶつかり合う音が聞こえていた。そのうちの一人は私と妹と仲良しの女の子でもあったから、長い間「精神病」というレッテルで彼女たちが地域から孤立していることにも気付いていなかった。
もう一人近所には、石を子ども達に投げる年配の女性がいて、今考えると、息子が戦争で戦死していたかもしれないし、とにかく大きな悲しみが彼女の人生にあったに違いない。しかしその彼女が石を投げるときに、それを大人たちが必死で止めるというよりは、子ども達が彼女に投げられる石を遊びの一つとして捉えていたことを思い出す。
また、今で言えばホームレスの人たちが、おおげさでなく月に二三回は”乞食”として家々に回ってきて、私の母はいつも彼らに丁寧に応対していた。深々とお辞儀をして、ちり紙に巻いた5円や10円を一合の米を添えて渡すので、私は”乞食”と言われる人たちが社会的に卑しめられている立場にいると気づくまでずいぶん間があった気がする。
そうした幼いときの風景の中には、精神障害を持つ人たちがあまりに当たり前にいたので、障害者運動の中で、精神障害者との連帯というのは80年代の終わりまでなかなかピンとこなかった。
しかし昨今の精神障害を持つ人たちに対する差別や抑圧の激しさを見る時に、彼らとの共生の方向を探り出すことが緊急課題であるとの認識は心深くに持っていた。
その認識を持って11月12日、エンジョイセンターで初めての精神障害を持ちながらそこからの回復に取り組んでいる人を招いて講演会を開いた。
(続きは後日に。。。)
「聞く」ということ
- 2008-11-06 (木)
- 雑感
私は「再評価カウンセリング」という、人々が効果的に助け合う方法を学び、日本にそれを紹介するという仕事を、自分のライフワークにしている。
この理論や方法を、障害を持つ仲間に応用して「ピア・カウンセリング」も広げてきた。
この理論によれば、人間は本来、一人一人完全にすばらしく何の問題もなく、「生まれてきた」というその一点で尊ばれ、価値がある存在だと考えられる。
しかし、現実の社会で全くそうなっていないのは、あまりにもさまざまな「傷」があり、それが巨大化して抑圧となり、お互いに傷つけあったり、分断・排除しあったり、ついには戦争にさえなってしまう。
「傷」というのは、生まれてきたばかりの赤ちゃんにはほとんどない。しかし、周りから押し付けられた「男の子だから」「女の子だから」「障害を持っているから」「持っていないから」などの抑圧によって、どんどん分断され、その上一定の年齢になると、傷ついた感情を中に溜め込むことを要求されるので、更にますます考えられなくなっていく。
「傷ついた感情」とは、悔しさや悲しさや辛さ、恥ずかしさ、痛みなどであるが、笑いや涙や震えることによってそこから回復して行けると私たちは考えている。
それを「聞きあう」ということを使って、傷ついた感情が心と体から外に出るように時間を分けて聞きあっていくために、またの名を「コウ・カウンセリング」とも呼ばれている。
この話を書いていくと長くなるので、この辺にしておくが、今日書きたいのは、「聞く」ということがどんなに大切かということだ。
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最近、二人の人から話を聞いた中でのことである。
一人は企業社会に今年の四月からガンガン働いている私の友人が教えてくれたことだが、
彼女は頭では、「福祉を勉強してきたわけだから、企業社会での働き方や自分の生活が、どれほど命から遠ざかった、命を大切にしていない生き方か良くわかっているが、それを外から少しでも指摘されると聞けなくなってしまう自分がいることに気づいた」ということだ。
そしてもう一つ、アメリカの友人(ここでは仮に私の友人をMさんとする)の友人の話であるが、そのMさんの友人は精子バンクから冷凍精子を買い、郵便で配達されたものを一回目の人工授精で成功し、今子どもが四歳であるということだった。
話を教えてくれたMさんは、その友人が精子銀行から精子を手に入れる前にありとあらゆることを忠告したが効き目はなく、最後にはその友人の話を良く聞き、結論として、今はその四歳の子どもも含め、前と変わらずにいい友人関係でいるという。
彼女はもちろん人工授精には反対で、さまざまに忠告をしたのだが、聞き入れられず聞き役に回っていく中で、彼女の辛さや絶望がよく分かり、私に彼女の話を私に伝えてくれたときも、一言も非難がましい口調はなかった。
多分、Mさんはその友人に対して、そして子どもに対しても、本当にいいサポートをしているのだろうと想像できた。
企業で働いている友人と、Mさんの話を聞きながら、あまりにも価値観の違う人に対して、私たちは容易に自分の意見を押し付けてしまうのだということを再確認した。
企業社会で働くということは、ある意味自分の体を痛めつけるところに否が応でも追い詰められやすいわけで、それを心からいいと思っている人はいるわけはない。ただ、働かないと生活できないという巨大な不安や恐怖を連綿と歴史的に押し付けられ、その上社会保障の非常な貧しさとがあいまって、苦渋の決断としてそこにいる人が多いと思うのだ。
まして出産でもすれば、女性はやりがいのある仕事であっても子育てとの両立で難しいところにめちゃくちゃ悩まされる人が多い。
まして地球環境とか福祉の現実とかを知っていればいるほど、企業の提供する仕事がすばらしいとだけは思えないと気づいている人も多いだろう。そういう中で、私が「農業や福祉の仕事をやってよ」とか「もっと体を大事にしてよ」といい続けても、多分彼女を追い詰めることになってしまうだろう。
二人目のMさんの友人に対しては、私なら忠告をしまくって思わず友情まで危うくなりそうな気がする。大体、精子バンクから自分の大事な友人が精子を買って子どもを生むなどというのは、今の私の現実の中では発想できないから、呆然としてしまい、呆然とした挙句に聞き役になることはすっかり諦めてしまいそうだ。
しかし、精子バンクという優生思想の極みに作られたところを利用する人も確かにいるのだ。なぜなら、存続し続けていることが何よりの証拠だ。存続しているだけでなく、日々インターネットなどで世界中に情報を流し続けているのだから。
それが私の友人にいてもおかしくはない。
しかしその時私がどれだけ徹底的に聞き役に回り、最終的に彼女を理解し、サポートにまで回れるか、どんなに自分の価値観と違っていても非難しないで聞き続けることの大切さを、特にこの話からはしみじみと感じた。
私は、助け合い分かち合う社会を真剣に模索し続けてきた。「聞く」ということは、そのための確実な一歩だと思っている。
IH調理器と赤ちゃんの脳について。
- 2008-11-04 (火)
- からだに優しい暮らし
きみよさんの講演会に来てくれた方が、児童虐待の話を語ってくれた。彼女は乳児院に働いている方だ。
赤ちゃんを泣かせまいと激しく揺すぶって、赤ちゃんを傷つけたり、時には死に至らしめたりする親がいるということだった。
次の朝、友人や家族とエコの話しをしていて、「オール電化住宅」「IHクッキングヒーター」の話になった。
「オール電化マンション」に行くと私は、なんとなく元気がなくなる。たぶん強力な電磁波のせいだと思っている。我が家でもテレビやパソコンに囲まれると気分が悪くなり、別な部屋に逃げたりしている。
ところで書きたいことは「IH」についてだ。
続・佐藤きみよさんの講演について。
11月1日に、佐藤きみよさんを招いて講演会を行った。
今回は私が招いた新しい顔ぶれも10人以上は来てくれたので、『共に生きよう感じよう』連続講座の中では、かなり盛り上がった。
一番良かったのは、きみよさんの話がとてもすばらしかったことだ。聞きやすく、言葉も魅力的で簡潔で、声も優しい。講演者としての才能を十二分に持っている。
でも、なぜこんなによかったのかとつらつら考えるに、思ったのは、彼女の体験が人類史上初の新しいことばかりだからだ。
彼女が人工呼吸器を使って病院から抜け出して生きることを決意したのは18年前。
20年間、病院のベットの上で、白い壁と窓からほんの少しだけ見える外の世界を見ながら、「外に出たい」と呻き続けた人の気持ちは、本人にしかわからない。
しかし私たちには想像力があるので、そして私には13歳までの数年間に、彼女と同じような体験があるので、その想像力と共感をもってして、彼女の苦悩が本当に良くわかる。
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