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多様性の宇宙へ

私はなぜ書くのかを考えた

今、本を出そうと計画しているし、このブログも今までにないペースで書いている。

もともと筆まめなほうだが、ここでつくづくとなぜ書くのかを考えている。

私は私の身体を持って生まれてきたことで、数々のユニークな情報や人との出会いに支えられて生きてきた。

その中には、有益で普遍的で誰にでも等しく役にたつものがたくさんある。

それを分かち合いたいと心から思って書くのだということがわかった。

分かち合うということは、人間が生物として生き延びるために最も
本質的で賢明な方法だ。過酷な狩猟時代を生き延びた人類が多様な生物の中で
圧倒的に優位にたてたのは、この分かち合いを始めたからだろうと思う。

分かち合うことによって、自分以外の人たちの命が生き延びていくことを認識した時が
愛するということの始まりかもしれない。

分かち合うというプログラムは人類のDNAの本能という形質の中に
もともと入っていたのかも知れないが、本能だけではない部分にも発展し、
人類を万物の霊長たらしめてきたに違いない。

では次回からはどんな有益な情報を分かち合おうとしているかを
書いていく。

穂高養生園のこと。

穂高養生園に足を運ぶようになって以来、20年近くになった。

養生園のオーナーの福田さんや、スタッフの人たちとも、親しいお付き合いをさせていただいて、互いにかけがえのない友人となっている。

穂高養生園は、ホームページを見てもらえば一番詳しいが、
玄米正食や温泉という、リラックスするために私が大好きなものがたくさんあるところで、
年に何度かは訪れたい場所だ。

ここ数年は「再評価カウンセリング」の紹介セミナーなども開催してきた。

紹介クラスの仕事だけではなく、雄大な自然に出会い、リラックスするためにもっと訪れたいのだが、
何かとやりくりがつかず、今年も12月のクラスの訪問のみとなってしまった。

20歳の時から私は玄米を食べ、西洋医学ではなく、東洋医学的なアプローチを心掛けてきた。
それらの学びの集積と体の声の赴く先として、穂高養生園に巡り会えた。

今は亡き母を、一度連れて行ったこともある。

また、そこで出会った心やさしい友人たちとのさまざまな出会いや別れの数々も、心に深い糧となっている。

今年も最後にまたどのような嬉しい出会いがあるのかが楽しみだ。

精神に障害を持つとされる人々と共に

私は1956年2月生まれの52歳。

この年に、日本の経済白書に「戦後は終わった」と書かれたという。
戦後、大地主制度が瓦解し、敗戦の壮絶な貧しさの中から出て、日本社会は競争が苛烈な自由経済市場となった。

その成果が、56年の経済白書に表れて、高度経済成長に突き進む記念の年だったのだろう。

その後、東京オリンピックがあり、ベトナム戦争があり、私の近所の風景も少しずつ変わっていった。

昭和40年代初めの「always 三丁目の夕日」のような風景の中に、私もいて、その頃には「精神障害」と呼ばれる人たちは地域の中でまだ「不審者」とも「おかしな人」とも呼ばれず、もちろん肩身は狭かっただろうけれども、共に過ごしていた。

特に私の左隣の家の人たちは、今から考えると「統合失調症」と呼ばれる人が、6人家族の中に3人もいて、しょっちゅう壮絶な罵声や物や人のぶつかり合う音が聞こえていた。そのうちの一人は私と妹と仲良しの女の子でもあったから、長い間「精神病」というレッテルで彼女たちが地域から孤立していることにも気付いていなかった。

もう一人近所には、石を子ども達に投げる年配の女性がいて、今考えると、息子が戦争で戦死していたかもしれないし、とにかく大きな悲しみが彼女の人生にあったに違いない。しかしその彼女が石を投げるときに、それを大人たちが必死で止めるというよりは、子ども達が彼女に投げられる石を遊びの一つとして捉えていたことを思い出す。

また、今で言えばホームレスの人たちが、おおげさでなく月に二三回は”乞食”として家々に回ってきて、私の母はいつも彼らに丁寧に応対していた。深々とお辞儀をして、ちり紙に巻いた5円や10円を一合の米を添えて渡すので、私は”乞食”と言われる人たちが社会的に卑しめられている立場にいると気づくまでずいぶん間があった気がする。

そうした幼いときの風景の中には、精神障害を持つ人たちがあまりに当たり前にいたので、障害者運動の中で、精神障害者との連帯というのは80年代の終わりまでなかなかピンとこなかった。

しかし昨今の精神障害を持つ人たちに対する差別や抑圧の激しさを見る時に、彼らとの共生の方向を探り出すことが緊急課題であるとの認識は心深くに持っていた。

その認識を持って11月12日、エンジョイセンターで初めての精神障害を持ちながらそこからの回復に取り組んでいる人を招いて講演会を開いた。

(続きは後日に。。。)

「聞く」ということ

私は「再評価カウンセリング」という、人々が効果的に助け合う方法を学び、日本にそれを紹介するという仕事を、自分のライフワークにしている。

この理論や方法を、障害を持つ仲間に応用して「ピア・カウンセリング」も広げてきた。

この理論によれば、人間は本来、一人一人完全にすばらしく何の問題もなく、「生まれてきた」というその一点で尊ばれ、価値がある存在だと考えられる。

しかし、現実の社会で全くそうなっていないのは、あまりにもさまざまな「傷」があり、それが巨大化して抑圧となり、お互いに傷つけあったり、分断・排除しあったり、ついには戦争にさえなってしまう。

「傷」というのは、生まれてきたばかりの赤ちゃんにはほとんどない。しかし、周りから押し付けられた「男の子だから」「女の子だから」「障害を持っているから」「持っていないから」などの抑圧によって、どんどん分断され、その上一定の年齢になると、傷ついた感情を中に溜め込むことを要求されるので、更にますます考えられなくなっていく。

「傷ついた感情」とは、悔しさや悲しさや辛さ、恥ずかしさ、痛みなどであるが、笑いや涙や震えることによってそこから回復して行けると私たちは考えている。

それを「聞きあう」ということを使って、傷ついた感情が心と体から外に出るように時間を分けて聞きあっていくために、またの名を「コウ・カウンセリング」とも呼ばれている。

この話を書いていくと長くなるので、この辺にしておくが、今日書きたいのは、「聞く」ということがどんなに大切かということだ。

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最近、二人の人から話を聞いた中でのことである。

一人は企業社会に今年の四月からガンガン働いている私の友人が教えてくれたことだが、
彼女は頭では、「福祉を勉強してきたわけだから、企業社会での働き方や自分の生活が、どれほど命から遠ざかった、命を大切にしていない生き方か良くわかっているが、それを外から少しでも指摘されると聞けなくなってしまう自分がいることに気づいた」ということだ。

そしてもう一つ、アメリカの友人(ここでは仮に私の友人をMさんとする)の友人の話であるが、そのMさんの友人は精子バンクから冷凍精子を買い、郵便で配達されたものを一回目の人工授精で成功し、今子どもが四歳であるということだった。

話を教えてくれたMさんは、その友人が精子銀行から精子を手に入れる前にありとあらゆることを忠告したが効き目はなく、最後にはその友人の話を良く聞き、結論として、今はその四歳の子どもも含め、前と変わらずにいい友人関係でいるという。

彼女はもちろん人工授精には反対で、さまざまに忠告をしたのだが、聞き入れられず聞き役に回っていく中で、彼女の辛さや絶望がよく分かり、私に彼女の話を私に伝えてくれたときも、一言も非難がましい口調はなかった。

多分、Mさんはその友人に対して、そして子どもに対しても、本当にいいサポートをしているのだろうと想像できた。

企業で働いている友人と、Mさんの話を聞きながら、あまりにも価値観の違う人に対して、私たちは容易に自分の意見を押し付けてしまうのだということを再確認した。

企業社会で働くということは、ある意味自分の体を痛めつけるところに否が応でも追い詰められやすいわけで、それを心からいいと思っている人はいるわけはない。ただ、働かないと生活できないという巨大な不安や恐怖を連綿と歴史的に押し付けられ、その上社会保障の非常な貧しさとがあいまって、苦渋の決断としてそこにいる人が多いと思うのだ。

まして出産でもすれば、女性はやりがいのある仕事であっても子育てとの両立で難しいところにめちゃくちゃ悩まされる人が多い。

まして地球環境とか福祉の現実とかを知っていればいるほど、企業の提供する仕事がすばらしいとだけは思えないと気づいている人も多いだろう。そういう中で、私が「農業や福祉の仕事をやってよ」とか「もっと体を大事にしてよ」といい続けても、多分彼女を追い詰めることになってしまうだろう。

二人目のMさんの友人に対しては、私なら忠告をしまくって思わず友情まで危うくなりそうな気がする。大体、精子バンクから自分の大事な友人が精子を買って子どもを生むなどというのは、今の私の現実の中では発想できないから、呆然としてしまい、呆然とした挙句に聞き役になることはすっかり諦めてしまいそうだ。

しかし、精子バンクという優生思想の極みに作られたところを利用する人も確かにいるのだ。なぜなら、存続し続けていることが何よりの証拠だ。存続しているだけでなく、日々インターネットなどで世界中に情報を流し続けているのだから。

それが私の友人にいてもおかしくはない。

しかしその時私がどれだけ徹底的に聞き役に回り、最終的に彼女を理解し、サポートにまで回れるか、どんなに自分の価値観と違っていても非難しないで聞き続けることの大切さを、特にこの話からはしみじみと感じた。

私は、助け合い分かち合う社会を真剣に模索し続けてきた。「聞く」ということは、そのための確実な一歩だと思っている。

IH調理器と赤ちゃんの脳について。

きみよさんの講演会に来てくれた方が、児童虐待の話を語ってくれた。彼女は乳児院に働いている方だ。

赤ちゃんを泣かせまいと激しく揺すぶって、赤ちゃんを傷つけたり、時には死に至らしめたりする親がいるということだった。

次の朝、友人や家族とエコの話しをしていて、「オール電化住宅」「IHクッキングヒーター」の話になった。

「オール電化マンション」に行くと私は、なんとなく元気がなくなる。たぶん強力な電磁波のせいだと思っている。我が家でもテレビやパソコンに囲まれると気分が悪くなり、別な部屋に逃げたりしている。

ところで書きたいことは「IH」についてだ。

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続・佐藤きみよさんの講演について。

11月1日に、佐藤きみよさんを招いて講演会を行った。

今回は私が招いた新しい顔ぶれも10人以上は来てくれたので、『共に生きよう感じよう』連続講座の中では、かなり盛り上がった。

一番良かったのは、きみよさんの話がとてもすばらしかったことだ。聞きやすく、言葉も魅力的で簡潔で、声も優しい。講演者としての才能を十二分に持っている。

でも、なぜこんなによかったのかとつらつら考えるに、思ったのは、彼女の体験が人類史上初の新しいことばかりだからだ。

彼女が人工呼吸器を使って病院から抜け出して生きることを決意したのは18年前。

20年間、病院のベットの上で、白い壁と窓からほんの少しだけ見える外の世界を見ながら、「外に出たい」と呻き続けた人の気持ちは、本人にしかわからない。

しかし私たちには想像力があるので、そして私には13歳までの数年間に、彼女と同じような体験があるので、その想像力と共感をもってして、彼女の苦悩が本当に良くわかる。

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「親のサポート」

いろいろな縁があって生活クラブ生協の人たちと月一回、親の自助グループを始めた。前々からしたかったことなので、楽しんでいる。
近郊で小さい子を育てている人たちが6人集まっている。一応2時間という設定だが、涙や笑いを丸ごと含めて7人がそれぞれの気持ちと話をしていくと、あっという間に時間は過ぎる。
(私は「子ども」をなるべく「若い人」と呼びたいと思っている。これからは、「子ども」は「若い人」と書いていく。)

私は元々、若い人をサポートしたいと思ってきたが、若い人をサポートするにはまず親が助からなければならない、という道筋があって、このグループも喜んで引き受けた。親自身が自分自身を肯定的に見れれば見れるほど、若い人との生活は楽になる。若い人に自分の人生の様々な苦しみを伝染させないために、親の自助グループはとても重要なものとなるだろう。

そしてもうひとつ、親のサポートとして私がずっと取り組んできたのは、親のアライ(サポーター・味方・具体的な行動も誠実に分かち合ってくれる人)を育てることだ。私の周辺にいる子育てしている人の中には、様々な困難を抱えている人も多く、私にできることは何かと考えたとき、私と共にいてくれる大切なアライたちに、彼女たちのもとに行ってもらうことだった。

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「自立生活センター」と佐藤喜美代さんの講演

対外的に私は「CILくにたち援助為(エンジョイ)センター代表」という肩書を時々使っている。肩書を使うために代表になっているわけではないが、私を代表にしておくと、CILくにたち援助為センターがよく知られるかもしれないという希望がそこにはある。
まあ、その希望と予測にまあまあ貢献できているだろう。
というわけで、代表の仕事は、自分のやりたいことをやりまくる、ということで許してもらっている。
CILは「自立生活センターCenter for Independent Living」の略で、1986年に私は日本で初めてのCIL「ヒューマンケア協会」を創った数名のメンバーのうちの一人だ。
私は娘を産んだ1996年に、地元のCILの代表に請われてなった。八王子のヒューマンケア協会のほうは、代表の中西さんの大活躍で、今はアジア各国にCILの創出を支援するまでになってきている。
現在、自立生活センターは全国に100ヵ所以上あるので、関心のある方は各地の自立生活センターのホームページをぜひ覗いてほしい。CILくにたち援助為センターは、その中でも女性陣が活躍しているユニークなセンターである。「活躍」とは言っても、規模の拡大は目指していないが。国立市全体の人口は8万を切っている小さな市なので、私たちが地道に地域に住む障害を持つ人に当事者としてサービスを提供したり、地域で自立生活することの重要性を伝えていくには、「スモール・イズ・ビューティフル」のあり方でいこうと思っている。

詳しいことは援援助為センターのページにアクセスしてほしいが、私の大好きな友人を11月1日に呼ぶので、そのことを少し書きたい。

友人の名は佐藤喜美代さん。彼女はベンチレーター(人工呼吸器)を使用して日本で初めて自立生活を始めた人だ。病院から出て、自立生活がそれなりに軌道に乗ったころ、私は「遊歩、地域に出て自立して、私何をすればいいのかな?」と相談を受けた。「介助者を使ってここで生きているだけでも十分だけど、自立生活運動は、仲間をオーガナイズすることがとても大事だから、ベンチレーターをつけて自立しようとする人を応援する会を作ってみては?」と提案。彼女はただちに実行し、今ではベンチレーター使用者ネットワークとさっぽろの自立生活センターと、どちらも代表として活動している。また、彼女は詩人でもあり、絵描きでもある。

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「本づくり」について

「本づくり」(最近の活動) 08年10月23日

最近一番力を入れているのは、2,3年来取り組んでいる3作目の本書きだ。
「癒しのセクシートリップ」「車イスからの宣戦布告」に続き、太郎次郎社から単独の刊行物としては3作目となる。自分で書いて、自分で売り歩く勤勉な著者として、太郎次郎社から大事にされているので、早く作って今までの借りを一気に返さなければならない。実はつけで自分の本を買い、売っている。そういうプレッシャーもあって編集者を私の方が励まして、週に一回泊まり込みをしてもらい口述筆記で書いている。遅くても来年の春には形にしたい。
タイトルは決まっている。「たった一つの私の体」というものだ。書きたいことは、「私たちの身体に本当に必要な医療や教育とは何か」ということで、そこから「生きる目的は自分や周りの人を大事にして、日常の中で穏やかに長生きすることなのだということを伝えたいと思っている。
「私たちの身体」とは、本の始まりは「骨形成不全症」と言われる私や娘と仲間の身体のことだが、本の終わりには私と共に生きるすべての人の身体に言及していこうと思っている。
出版されたらぜひぜひ読んでほしい。
もちろん、私のつけ払いに協力したいと思ってくれてもいいが、そんな小さなレベルではなく絶対面白い本にするので、期待してください。

「からだに優しい暮らし」

13歳の時に、整形外科医に「自分の体は自分で面倒をみるからもう二度と手術はしません」と宣言して以来、民間療法の大家が書いた赤本を読み漁ったり、食に関する様々な情報を集めたり、そして自分の体で実践できることはできるだけしてきた。

また、チェルノブイリが起こる少し前から原発問題を含むエコロジーに関心が高まり、くにたちに引っ越した時には、20Aのアパートの電流を10Aに下げて、東京電力の人を驚かせた。東京の電力の約4分の1は、私の故郷の福島に造られた原発10数基でまかなっている。福島の人たちの健康や命や自然を犠牲にして、自分がいま東京の暮らしをしているのだということを常に考えている。福島の友人が柏崎の原発が地震で止まっていることを非常に羨んでいた。なぜかというと、柏崎の原発が止まっているために、福島の老朽化した原発が、定期点検もせずに稼働しているというのだ。放射能の危険は、広島長崎の体験のある日本でこそ周知の事実であると思う。原発過密国の日本がまず、自然エネルギーの方にどれだけシフトできるかがからだと地球に優しい暮らしの鍵だ。
最近は、ソーラーボックス(ソーラーパネルで小さな電子機器を使えるようにしたボックス)を購入し、パソコンを動かしたりしている。

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