多様性の宇宙へ
新刊「いのちに贈る超自立論」発刊。
- 2009-12-22 (火)
- 最近の活動
ついに私の新しい本が出た。
「いのちに贈る超自立論」というタイトルだ。
太郎次郎社から発刊された。

書き始めてから早四年となるので、直前には少し「もう止めようか」というあきらめの境地にもなったが、編集者と出版社に励まされて完成。
はっきり言ってそれまでは、編集の人を励まし続けて書き進めた日々だった。
彼女とは、私が太郎次郎社から一冊目の本(「癒しのセクシートリップ」)を出したときからの付き合いで、編集者と著者という関係を遥かに超えて、友人同士となっているので、なかなかそこのところが大変でもあった。
しかし、出来上がってみれば、そうした日々はかえって二人へのプレゼントとなった。
今までのどの本よりも、自分の中では言いたいこと、伝えたいことをきちんと書いたと思えている。
どんなに私達障害を持つ女性の現状が厳しくあろうと、障害を持つ母親の日常が差別に打ちのめされんばかりの日々であろうと、私は生き続けてきた。そしてこれからも。
助けは求めればいっぱいある。手を伸ばせばいつだってそこにある。
独りにならなくていい。仲間を作り出して、幸せな現実を作り出せる力と自由と責任が私にはある。
娘も13歳。あと5ヶ月で14歳になる。
ほんとうに早かった。早すぎて、自分の年が時々分からなくなる。
でも、鏡に写る自分の顔を見ると、恋い慕ってやまない母親の顔と似てきたように感じるときがある。
目の周りにしわが多くなって、なくなる直前はほんとうに柔和な表情の母だった。
どんな苦労も困難も、一人の人の中で熟成して発酵して穏やかさをつくるのかと思わせるような平和な笑顔の母だった。
その表情に良く似た自分が時々鏡の中に見えて驚く。
本はクリスマスに発売される。
その後二ヶ月で私も、母が亡くなった年齢までもうすぐ一回りである54歳となる。
たくさんの人々の協力と応援で、そして丈さん(パートナー)の忍耐強い愛で、家族間の絆もますます豊かに深くなっている。その片鱗がこの本の中の素敵な写真に表れていると思う。(もちろん、私の言う「家族」は、丈さんと娘の宇宙ちゃんだけでなく、今一緒に暮らしている友人もそうだし、私たちに関わっている多くの友人達、介助者たちみんなを含めてのことだ。)
どうぞ手にとって未来への暮らしの一つの提言として読んで欲しい。
尚、この本の売り上げは、私から買っていただければ、フィリピンのストリートチルドレンに送っている物資の送料とさせてもらっている。
ぜひ私から直接買っていただけたら嬉しい。
もちろん、最寄りの書店への注文もぜひお願いしたい。
福島県の国見町に行ってきた(森の復元活動)
- 2009-09-12 (土)
- 最近の活動
私は今年、日本熊森協会という会員になり、
5月からは、その会の顧問にもなった。
肩書きはなんでもいいが、この会のやっていることが、
私の目指していることと、とても近いので、
できることはなんでもしたいと思っている。
その一つとして先日、福島県の北端の町、国見町に行って来た。
国見町は、奥山に植えた針葉樹林を伐採し、
熊が住める広葉樹林を復元したいと
27ヘクタールの土地を熊森協会に任せてきた。
植林をして、豊かな森を復元したいというのだ。
その提案を受け、熊森協会がどのように出来るか、
東北の会員が集まり学び、検討するという会があったのだ。
熊森協会は、西日本では多くの場所に植林をしてきたが、
東北では始めてということで、
会長の森山さんが兵庫県から、
生態学者の主原さんが京都から駆けつけてくださった。
日本熊森協会は、
「クマの捕殺を止めよう!」ということから始めて、
森の荒廃を復元する活動へと発展し、
更に最近は、世界水戦争からも森を守ろうという壮大なポリシーと運動も育ててきている。
既に1266ヘクタール以上の森(土地)を、自然保護のためにトラストしているというから驚きだ。
熊はアンブレラ種といい、森の長でもあり、
要でもある重要な存在だ。
熊の皮剥ぎや食事のあり方等の習性は、
実は森のバランスを回復させ、豊かにし、
その森は水を日本の全土に供給してくれている。
そうした重要な働きをしている熊から
まず食料を奪ったのが、戦後の林野庁の造林政策だ。
もともとあった原生林を切り倒し、杉や檜を植えまくった結果、
どんぐり等の木の実のならない針葉樹林に熊は食を求められず、
里へ降りることとなった。
里に下りると、今度は”有害駆除”され、
すさまじく殺されてきた。
九州は全滅、四国もほぼ全滅、西日本全域が絶滅の危機にある。
そのことに心痛めた中学生たちがまず立ち上がった。
その中学校の理科の教師であった森山まりこさんが
彼らの熱意に押され会を起こし、地道に活動を続けてきて、
今では教職を退いて、熊森協会の仕事に専念している。
障がいを持つ胎児も子宮の中で安らかに眠っているわけにはいかなくなった
昨今の医学、科学の進歩がある。
子宮の中で出生前診断を受け、命の選別によって、
多くの命が障がいを持っているということで、抹殺されている。
それは、奥山に食料が無くて住むことが出来なくなり、
里に下りたために、害獣とされる熊たちの姿と
私の中で重なるのだ。
せめて、社会の厳しい状況に出会う前くらい、
子宮の中でまどろんでいたいだろう胎児たち。
そして、森に豊かな食料さえあれば、
ひっそりと奥山で暮らしていたいだろう熊たち。
種のありようは違うが、
障がいを持つ人間の胎児も、奥山の熊たちも、
「私の居場所、命を奪わないで」と、
声なき声を発し続けているに違いないと、
心がぎゅっと痛み続けている。
10月4日(日)には、日本熊森協会主催による、
シンポジウムが、早稲田大学国際会議場内の井深大記念ホールで
13時から行われる。
詳細は以下
http://homepage2.nifty.com/kumamori/symposium-index.html
ぜひ多くの方に参加してほしいと、心から願っている。
臓器移植について 2
- 2009-06-16 (火)
- 思うこと
先日は臓器を求める側の親に対しての気持ちを書いた。今日は医療関係者に対しての思いと考えを書く。
まず医療関係者と一口に言い切ってしまったが、一人一人医療を志した思いも背景も違うわけだし、臓器移植に対しても個々人の考え方はいろいろあるに違いない。ここで私が訴えたい人たちは、臓器移植について賛成あるいは若干の疑問を持ちながらも、賛成せざるを得ないと考えている人たちへ、なのだ。
賛成だと考えている人たちは、なぜ賛成なのかを問いたい。脳死段階で取り出せばまた生き返る臓器を、みすみす無駄にするよりは、その臓器で助かる命があるなら助けたほうがいいということなのだろうか。
こういう考え方は効率主義的で、いかにも賢そうに思える。
しかし何度も繰り返すが、本当の効率主義を考えるなら、脳死段階からの回復を考えたほうがずっと論理的だといえる。
その論理の正当性は、医療の場にいる人の方が多くの情報を持っているに違いない。だからここで詳しくは触れないが、なぜか脳死状態の人を徹底的に可哀想だと決めつけて、臓器を取り出そうとする動きは医療の場にいる人の方が更に激しい。なぜだろうか。
日本は所謂、先進国と呼ばれる国々の中でも、薬害の被害を繰り返し続けている国だ。
私の記憶だけでも、サリドマイドやキノホルム、HIVの血液製剤や、最近のリタリンやタミフル、SSRIなど、人間の命を薬害に奪われても奪われてもなぜこんなにも気付けないのだろうか。そこにあるのは医療を金儲けの道具にしようとするシステムのありようだし、それがおかしいと思いつつも、巻き込まれ続けている製薬会社の関係者や医療者達がいる。臓器移植はどう考えても、どう抗弁しても沢山のお金が動くことは間違いない。臓器移植を成功させたとしたら、お金だけでは無く、名誉も研究欲も満足するし、達成感も深くなるだろう。
しかし、だからこそそこで考え続けて欲しいのだ。人間の命は非常に繊細で、そして同時にダイナミックではあるが、一度失われれば二度と戻りはしないのだ。その命と共にあった人にとっては、臓器をあげたことでその人の一部が生きているから満足すべしと言われても、医療者ほどには満足は出来ないだろう。勿論医療者自身も、自分の家族や、自分が脳死状態になったら即臓器をあげようとは簡単には思えないだろう。臓器移植をしたとしても、延命率は60%だと聞く。その延命も、1年なのか2年なのか、10年までいっているのか、確実な統計はまだどこにもないだろう。
臓器移植を考え行動する前に、脳死状態からの回復を医療者こそが真剣に考え、研究してほしい。人間の体はロボットの様にパーツを寄せ集めて、動いているのではなく、命の全体性があって生きている体となっている。そのことを誰よりも知っているのは、人間の体に向き合い続けている医療者自身に他ならないのだから。
臓器移植について
- 2009-06-04 (木)
- 思うこと
臓器移植法案をめぐって、国会審議が始まろうとしている。
改正法案の中、特にA案を支持している議員が多いと聞いて驚いた。「脳死を人の死と完全に認め、子供であっても親の同意さえあれば臓器移植を認める」というこのA案には、問題がいくつもある。
まず脳死を人の死として認めるのが適当かどうかという点だ。脳死と判定されながらその後完全に回復した人も何人もいるし、意識が回復しないままであっても、体が成長しつづけた子供の記録もある。脳死状態にある人を回復させるほうが、臓器を取り去ってしまうよりずっと利にかなっていると思うのに、なぜか臓器移植という究極の選択の方に注目もお金もエネルギーも集中しているのはどういうカラクリがあるのだろう。
かつて私の母がくも膜下出血で脳死状態になったとき、私は暖かい体の母にすがり付いて泣き続けられたので、母が死んでいるということは全く受け入れられなかったし、受け入れなかった。二十歳の時から重い障害のある人にも生きる権利があるのだと活動し続けてきた私にとって、脳死状態の母は私と共に活動しつづけてきた重い障害を持つ仲間でしかなく、もし彼女がそのままの状態でいてくれたなら人口呼吸器ごと家に連れて帰ったに違いない。しかし残念ながら母は6時間後には心停止状態となり、体は少しづつ冷たくなり、硬直していった。
脳死状態の回復をこそ徹底的に語るべきなのに、なぜ臓器移植という生命倫理を徹底的に混乱させるような議論を積み重ねているのだろうか。そこにはやはり、命を市場化する経済論理が丸見えだ。
特に子供の移植が出来ないからといって、海外にわが子を連れて出ようとする親子の姿をニュース等で繰り返し報道していることが気にかかっている。その裏には何があるのだろうか。
脳死判定された子供から使える心臓や肝臓を取り出すわけだが、もしその脳死判定が誤りであったり、もしかしたら時間をおけば回復するということが分かっていたら、それでも自分の子供にその子からの心臓が欲しいと親は望むのだろうか。
臓器移植を求めて海外にわが子を連れて行く親の想像力は、経済市場主義の社会によって完全にブレーキをかけられている。この社会はお金がないと生きられないという思いで満ち満ちていて、貧しい子供の親は「この子はどうせ生きられないのだから」と、わが子の健康な臓器をお金のある人に売るだろうことも数多くあるのだ。あるいはお金に目がくらんだ人が、まずしい子供を誘拐し臓器を取ってしまうことも、「闇の子供たち」という映画や小説で知られてきている。
昔は子供を身代金と引き換えに売り、子供は労働力を提供することで命だけは生き延びることが出来た。しかし、現代の人身売買の恐ろしい点は、命まで容易にとられてしまうという点だ。
どうか重い心臓病や肝臓病を持った子の親たちに言いたい。自分の涙で泳げるくらいに泣いてもいいから、脳死の子や貧しい子の命を奪っていいとするこの法案を皆さんこそが反対して欲しいと。子供たちは自分の身体も過酷な運命も親の本物の愛情さえあれば必ずや乗り越えていける。結論が死であってさえも。誰かから奪い取った健康な心臓と共にいくばくか生きながらえたとしても、それがその子が本当に望んだ人生とは、私には全く思えない。
私は自分もわが子も、他の人が全く望まないだろう障害を持った体で産まれてきた。親は私が骨折するたび、「自分が代わってあげられたら」とぽろぽろ泣いていた。私もまた娘が骨折する度に、「自分だったら良かったのに」と涙する。
しかしだからこそ、命が脅かされたら、自分がどんな風に感じるかも想像力の範囲内で考え、思うことが出来る。
結論は、私も親も、自分の命に代えても助けたいとは思うけれど、他の子の命は決して脅かしたくない、ということだ。
なぜならその臓器提供する子の親も、脳死状態から、貧しさから徹底的に回復したいと思っている親に違いないのだから。
次回は臓器提供をめぐる親たちへだけではなく、このことをめぐっての医療関係者に向けての思いを書いていきたい。
娘の卒業式
- 2009-04-05 (日)
- 子育て
娘が小学校を卒業した。
この7日には中学生になる。
卒業式に行って、あまりの画一性に度肝を抜かれた。
私は「人間が人間であることの素晴らしさの一つは、「多様性を互いに認め、尊重できる力」と思っているが、
その多様性を一つの型にはめたいという意志をあちこちに感じた式だった。
子どもたちがどんな歩き方でも、どんな声でも、それぞれらしさが出ていれば味わい深いものであるだろうに、子どもたちは大人の愛にこたえようと必死で大人の期待にこたえていく。
それがしみじみ悲しかった。
教員たちの自由裁量が認められ、もっともっと柔軟な力が発揮できれば、どんなに楽しい式になったかと思うと残念だった。
障害を持つ子が生まれるということは、人類の必然だ。
他の生物でも障害を持って生まれたら、本能的な弱肉強食のありかたに負け、重い障害を持つ仲間が生きていられているというケースは聞かない。
その中で人類が重い障害を持つ人とも共に生きられるのは、人類の中に備わる深い人間性、知性という資質のなせる業としか言いようがない。
しかし、この人間性、知性が、教育の中で上手くはぐくまれていないことは、誰の目から見ても明らかだろう。
しかし、心ある教員たちは、日本でも世界でも、障害を持つ人達と共に生きる教育を選択し、実践し続けてきた。どんなに厳しい状況の中であっても、彼らのふんばりがあちこちに豊かな芽を出し、子どもたちの人間的成長を保障してくれた。
それが今では、世界の潮流ともなり、障害者の権利条約にも大事な条項として書き込まれた。
私が望む理想の学びは、子どもがあくまでも主体的な意志で学ぶというものであり、形としてはサドベリースクールというところを知ったとき、私の考えと近いと思ったものだった。
究極を言えば、子どもは多くの大人たちに見守られて育ち、自分たちの意志で遊びの場も学びの場も創出できる存在だと信じている。
もちろんそのための建物や空間は、大人たちが心して提供しなくてはいけないだろうし、子どもたちが大好きな共にいる大人たちの存在も欠かせないだろう。
しかしその大人は、「こんなことができるよ」「あんなこともできるかも」と提案はしても、「あれをしよう」「これをしよう」と押し付ける必要はないだろう。
そのためには、何と言っても人類の発祥の地である偉大な自然が、子どもの豊かな学びの場として圧倒的に必要だ。
その点から見ても、前回書いた「日本熊森協会」の活動は、とてつもなく重要だ。
自然保護運動と障害者運動
- 2009-02-19 (木)
- 感動したこと
1970年代のはじめごろだったと思うが、「ローマ白書」という環境汚染に関する新聞記事を読んだ。21世紀が来る前に核兵器や石油の枯渇や人口の爆発で地球の未来は絶望的というような事が書いてあった。10代半ばの頃だったので、あまりの衝撃を誰にも語れなかったことを覚えている。20代始めの時には、福島県の地元にある原発がどれほど危険かを何度か講演会で聞いて、鬱々となった。
しかし、それ以前に障害を持つ自分たちの人権を確立し、地域に自立することが、まずわたしにとっては重要と考えた。そして、そのための活動に邁進した。なぜなら、同じ死や恐怖に晒されるにしても、施設という排除隔離された場所での死や恐怖はさらに屈辱や絶望も倍加される。とりあえず自然保護や、環境の問題は、障害のない人たちに任せておこうと思ったわけだ。
もちろんその間でも、やれることはやろうと考えた。チェルノブイリの大事故の後、日本の暴走する原発政策を止めるよう圧力をかけて欲しいと14,5カ国の首相や大統領あてに個人的に手紙を出したこともある。カナダとニュージーランドとオーストラリアから返事が来て、自分で出していながらも全く期待していなかったために、驚いたこともある。それぞれの国の答えはもちろん、内政干渉になるのでそちらの方で頑張って欲しいというのみだった。
また環境破壊の最たるものである戦争に対しても、障害を持つ人の運動と同時に出来ることはしようと平和の問題にも取り組みつづけてきた。
湾岸戦争の直後には90億ドルの戦費を返せという裁判を起こした原告団にも加わったし、最近では世界9条会議にも30人くらいの聞きあう方法を使って平和を作ろうという仲間と共に参加した。とにかく出来ることは何でもしようと考えている。
最近私のそうした気持ちや行動力と同じような情熱を持って、自然保護運動に邁進している人と出会った。日本一の会員組織を誇る実践自然保護団体「日本熊森協会」の森山まり子さんである。
日本熊森協会の設立と活動については「クマともりとひと」という小冊子が非常に面白いので詳しくは是非そちらを読んで欲しい。またホームページもあるので是非訪れて欲しい。
http://homepage2.nifty.com/kumamori
私がこの小冊子を手にしたのは1月の半ばくらいだったと思う。ホームレスの当事者の人が街頭で売っている「ビッグイシュー」という雑誌があるのだが、そこにこのグループのことを森山さんが紹介していた。私は読んですぐに「この人は本物だ」と直感した。だから、この小冊子を電話でまず30冊注文、その五日後には100冊を注文していた。小冊子をまず読んだのは娘だった。
娘の宇宙も環境問題には以前から非常に関心を持っていたので、これを読んで私が読む前に入会葉書を切り取り、「会員になるよ」と、すぐに投函していた。あまりの行動力に感化されて、わたしもまた会員呼びかけに発奮し、約一ヵ月後の2月11日には、森山さんに会いに行った。約4時間半の会っているあいだ中、わたしも森山さんも、わたしの夫の石丸も、そして最後の一時間には、森山さんのパートナーの昭典さんも、とにかくよく聞き、よく話し、よく笑い、よく泣いた。久しぶりに、この社会をこんな風に変えたいと、明確な構想を持ち、大いなる使命感に動かされて活動している仲間に出会えたという、感動的な出会いだった。
わたしは、人間の都合で静かで美しい奥山を追い出されて、殺されてしまう、ツキノワグマとこれまた勝手な人間の都合で、お腹の中でチェックされて生存権を奪われてしまう障害を持つ胎児が、話を聞く間中、重なって重なって、涙が流れて仕方がなかった。
特に、この熊森協会の立ち上げのときの中心的メンバーだった中学生たちが「大人たちは戦後、少しでも生活がよくなるようにと考えてやってきたんだけれど、その結果が今間違っただけだから変えればいいんだよ」と大人の失敗を責めずに次々とアイディアを出して行動し続けたと言う話しには深く深く共感した。
障害を持つわたし達の運動も、養護学校や施設で分けられることを拒否することから、まず立ち上がった。しかし、行政の分離や隔離政策を責め続けるのではなく、地域の中で生きるための介助料の獲得や、所得保障の整備、街構造の変革など、ありとあらゆることをやってきた。ともすれば、障害を持つ人たちの運動も、能力主義に陥りがちだ。つまり「○○ができるから、差別されるのはおかしい」とか、「大学にも行けるのだから、大学を整備せよ」とかなどである。
ツキノワグマも重い障害を持つ人も、存在そのものに大いなる意味がある。もちろんその存在がどんな風に役に立っているかを、科学的に述べていくことも可能だ。しかし、今ここで分かっていることは、どんな生命も生物も大いなる自然の一部で、いけとしいけるものは全て、存在そのもので正しいという事なのだ。
わたしの中では、自然保護運動と障害を持つ人の運動は、全く同じ方向を向いている。これからもできることの全てをやり続けるのみだ。
「泣いていい」ということ
- 2008-12-24 (水)
- RC
私は小さい時からよく泣いてきた。
度重なる骨折と、あまりにも痛い手術で、幼い頃はしょっちゅう涙が涸れるほど泣いた。
私も泣いたが、母も本当によく泣いて、私たちは泣くことで生き延びてきた。
ところが、それを肯定する情報が世の中にはまるでなかった。
泣きながら、泣いている母を「弱い」と思い、自分のこともどこかで「おかしい」と感じ続けてきた。
周り中から「泣くな」という目で見つめられていた気がするが、「泣くな」と言われて泣かないでいられるほど状況は優しくなかったから、それでもよく泣いた。
31歳で東京に移ってきて、その一年後ぐらいに再評価カウンセリングの基礎クラスに行った。
英語で学んだので理論的にはほとんどよくわからなかったが、一言、「It’s OK to cry」と言われたのには驚いた。
そう言われて15分くらい、次から次に涙が止まらず、イメージの中で医者たちに「やめろー!」と言いながら号泣し続けた。
15分が終わった時、カウンセラーに優しく「もう終わりだよ」と言われて、「こんな号泣が止まるのか?」と一瞬思ったのだが、涙はすーっとひいた。
クラスが終わってから、だんだん考えていくうちに、からだが医療から受けた治療に対してまだまだ怒っていることに気づいた。
そして、その怒りが医者とよく似た年齢の男性に対する嫌悪にもつながっていることにも気づいた。
私たちは、泣いたり笑ったりあくびをしたり、震えたりたくさん汗をかいたりした後に、新しい認識、評価を自分の過去に対して得る。
「再評価カウンセリング」と言われるゆえんは、ここにある。
私は、それまで中年の男性全般が苦手だと思い込んでいた。
しかし、その理由、原因は理解できずに生きてきた。
理解できなかったがゆえに、時にはひどく生きにくいことも起こった。
中年の男性に対して、ある種の怒りや、嫌悪を持ってしか出会えなかったのである。
ところがこの号泣以来、再評価が始まり、その後、何人かの中年の男性と友人にもなることができた。
深い涙は、思考を明晰にするために必要な回復へのプロセスなのである。
この理論は、どの人にも適用される。
赤ちゃんからお年寄りまで。あるいは、人種や民族の違いも超えて、もちろん男性と女性の間にも壁はなく、傷ついた感情を涙や笑いにして解き放つことで、よく考え、行動するということが可能になるのである。
それを知ってから、私の人生はとても生きやすくなった。
どのように生きやすくなったかは、今後また書いていく。
私はなぜ書くのかを考えた
- 2008-12-15 (月)
- 雑感
今、本を出そうと計画しているし、このブログも今までにないペースで書いている。
もともと筆まめなほうだが、ここでつくづくとなぜ書くのかを考えている。
私は私の身体を持って生まれてきたことで、数々のユニークな情報や人との出会いに支えられて生きてきた。
その中には、有益で普遍的で誰にでも等しく役にたつものがたくさんある。
それを分かち合いたいと心から思って書くのだということがわかった。
分かち合うということは、人間が生物として生き延びるために最も
本質的で賢明な方法だ。過酷な狩猟時代を生き延びた人類が多様な生物の中で
圧倒的に優位にたてたのは、この分かち合いを始めたからだろうと思う。
分かち合うことによって、自分以外の人たちの命が生き延びていくことを認識した時が
愛するということの始まりかもしれない。
分かち合うというプログラムは人類のDNAの本能という形質の中に
もともと入っていたのかも知れないが、本能だけではない部分にも発展し、
人類を万物の霊長たらしめてきたに違いない。
では次回からはどんな有益な情報を分かち合おうとしているかを
書いていく。
穂高養生園のこと。
- 2008-11-17 (月)
- からだに優しい暮らし
穂高養生園に足を運ぶようになって以来、20年近くになった。
養生園のオーナーの福田さんや、スタッフの人たちとも、親しいお付き合いをさせていただいて、互いにかけがえのない友人となっている。
穂高養生園は、ホームページを見てもらえば一番詳しいが、
玄米正食や温泉という、リラックスするために私が大好きなものがたくさんあるところで、
年に何度かは訪れたい場所だ。
ここ数年は「再評価カウンセリング」の紹介セミナーなども開催してきた。
紹介クラスの仕事だけではなく、雄大な自然に出会い、リラックスするためにもっと訪れたいのだが、
何かとやりくりがつかず、今年も12月のクラスの訪問のみとなってしまった。
20歳の時から私は玄米を食べ、西洋医学ではなく、東洋医学的なアプローチを心掛けてきた。
それらの学びの集積と体の声の赴く先として、穂高養生園に巡り会えた。
今は亡き母を、一度連れて行ったこともある。
また、そこで出会った心やさしい友人たちとのさまざまな出会いや別れの数々も、心に深い糧となっている。
今年も最後にまたどのような嬉しい出会いがあるのかが楽しみだ。
精神に障害を持つとされる人々と共に
- 2008-11-17 (月)
- 自立生活運動
私は1956年2月生まれの52歳。
この年に、日本の経済白書に「戦後は終わった」と書かれたという。
戦後、大地主制度が瓦解し、敗戦の壮絶な貧しさの中から出て、日本社会は競争が苛烈な自由経済市場となった。
その成果が、56年の経済白書に表れて、高度経済成長に突き進む記念の年だったのだろう。
その後、東京オリンピックがあり、ベトナム戦争があり、私の近所の風景も少しずつ変わっていった。
昭和40年代初めの「always 三丁目の夕日」のような風景の中に、私もいて、その頃には「精神障害」と呼ばれる人たちは地域の中でまだ「不審者」とも「おかしな人」とも呼ばれず、もちろん肩身は狭かっただろうけれども、共に過ごしていた。
特に私の左隣の家の人たちは、今から考えると「統合失調症」と呼ばれる人が、6人家族の中に3人もいて、しょっちゅう壮絶な罵声や物や人のぶつかり合う音が聞こえていた。そのうちの一人は私と妹と仲良しの女の子でもあったから、長い間「精神病」というレッテルで彼女たちが地域から孤立していることにも気付いていなかった。
もう一人近所には、石を子ども達に投げる年配の女性がいて、今考えると、息子が戦争で戦死していたかもしれないし、とにかく大きな悲しみが彼女の人生にあったに違いない。しかしその彼女が石を投げるときに、それを大人たちが必死で止めるというよりは、子ども達が彼女に投げられる石を遊びの一つとして捉えていたことを思い出す。
また、今で言えばホームレスの人たちが、おおげさでなく月に二三回は”乞食”として家々に回ってきて、私の母はいつも彼らに丁寧に応対していた。深々とお辞儀をして、ちり紙に巻いた5円や10円を一合の米を添えて渡すので、私は”乞食”と言われる人たちが社会的に卑しめられている立場にいると気づくまでずいぶん間があった気がする。
そうした幼いときの風景の中には、精神障害を持つ人たちがあまりに当たり前にいたので、障害者運動の中で、精神障害者との連帯というのは80年代の終わりまでなかなかピンとこなかった。
しかし昨今の精神障害を持つ人たちに対する差別や抑圧の激しさを見る時に、彼らとの共生の方向を探り出すことが緊急課題であるとの認識は心深くに持っていた。
その認識を持って11月12日、エンジョイセンターで初めての精神障害を持ちながらそこからの回復に取り組んでいる人を招いて講演会を開いた。
(続きは後日に。。。)
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