Home

多様性の宇宙へ

若い人の苦しみについて

10代は誰にとっても苦しいと知ってはいた。
特に中学時代はこの社会からのあまりにも激しい管理下に置かれることになり、それでいてみずみずしい自由を求める感性はそれほど傷ついてはいないわけだから、その間で激しい葛藤が生まれる。
私の中学時代は今から40年以上前のことだし、障害を持っていたので全く状況が違いすぎて比較する気にもなれないが、今一緒に暮らしている友人の話は私にとっては目から鱗の衝撃なので、ここに少し許可を得て分かち合いたい。

彼は23歳。
彼は今自分の女性という体に違和感がありトランスジェンダーというアイデンティティを持っているが、10年前の中学時代には全くそれを意識できない程の過酷な日々であったという。
彼は人より小柄だったために大きな鞄がお尻の方に掛かるのが良くないと教師に言われた。
その時は入学間もない頃だったのでまだ元気に、鞄にあわせて体を変えろと言わんばかりの理不尽さにきちんと言い返すことができたが、2年生からはイジメも激しくなったので、縮こまるように生きたという。

先輩後輩の上下関係を叩き込まれ、敬語を使いこなさなければ鼻血が出るくらいのリンチはよくあることで、ゲーセンに行けば「お前どこ中?」という言葉で喧嘩が始まった。
頭をかち割られて病院送りになった子もいれば、彼自身も胸にカッターナイフを毎日忍ばせて自分を守った。
300人いる学年のうち、30人はほとんど学校に来ていなかった。
そのうち半分は所謂ヤンキーと言われ、茶髪にしたり、煙草を吸ったり、暴走族の仲間に入ったり、所謂非行とか不良とか呼ばれる子たちだった。
しかし彼はどちらかといえばその子たちと仲良くしていたので、厳しいイジメに遭いながらも、ボコボコにされたことはなかったという。
それよりも友達同士で喧嘩をしたときに、頭が真っ白になって殴り合い、自分の足下に友達がうずくまっているのを見たことがあるという。
ただ、殴った相手もダメージが回復すれば殴り返してくるわけで、それなりに対等感があった。

教室の授業は絶えず騒音とふらふらと歩き回る生徒たちの中で行われるから、先生の声は後ろの方へはほとんど届かなかった。
それが毎日続くわけだから、先生たちも苦しみ、イジメに遭って、ついに自殺してしまった教員もいる。
彼の担任も胃に穴があいたということで通院はしていたし、彼もグループによる言葉による暴力で一時は幻聴幻覚が見える程に辛かったそうだ。

彼の場合、家の問題もあり、自殺未遂は繰り返したが最終的には死には追い込まれずに、なんとか生き延びることはできた。
愛知の管理教育の真っただ中で世間体だけを重んじる保守的な家族だったから、子どもを精神病院に連れて行くなど世間体が悪いし、ましてや自殺をしても評判しか気にしないだろうと感じていた。

彼に言わせるとその学校は「お礼参り」をされないためにも頑張っていたというが、その頑張りの内容は、生徒の様々な辛さや暴力に真剣には関わらないということで、たまに生徒に優しくされると成績が上がるという噂が立ったほどだ。

部活は彼の学校はほとんどの部活で優勝を総なめにしていたので、ひたすら勝つために激しい競争をさせられ続けた。
例えば体育祭で足の遅い子がいたら、助け合って最後まで走り抜くなどということは全く価値のないことだから、足の遅い子は総攻撃を食らうだけだった。
そうなることが目に見えていたら、その日に学校を休んで身を守ろうとする子が何人もいた。

文化祭というイベントは、彼にとっては地獄の監禁事件に巻き込まれる日だとも言えた。
内容と言えば学年内のヒエラルキーがきっちりと見える日だった。
頂点の子やその取り巻きが活躍するが、彼のようにヒエラルキーの底辺にいる子にとって、その活躍ぶりは全く関係ないので、息をひそめてその出し物を見続けるのみだったという。

彼の話はまだまだ続くが、どう見てもどう考えても、若い人一人一人が悪いわけでは全くない。
競争を過酷に煽るシステムが本当に間違っているのだ。
数字で人間を評価するシステムがない方が成績が上がったり(フィンランドの教育)、人間関係が良くなったりということは色んなところで明らかにされているわけで、脱原発で平和な社会を目指すならば、この教育のシステムから子どもたちを解放する取り組みが早急に必要だ。

その取り組みは、本当に身近なところからもできる。
一人一人の大人たちの周りにいる中学生に、そこに生まれ、生きていてくれることを感謝し、祝福し、少しでも素敵な関係を作ってほしい。
そのことが親や教師の孤立を救うことにもなるはずだ。

わたしの暮らし方

先住民族の人の暮らしを最近よく聴いたり見たりするようになった。そこで気付くのは、たとえばオーストラリアのアボリジニの人たちの歴史の長さだ。彼らの歴史は4万年とも7万年ともいわれている。一番新しい調査によると10万年ともきく。

彼らがどのように世代から世代へと生き延びてきたかというと、知恵や知識の伝達はすべて口伝であるということだ。その土地土地にどんな食べ物があるか、どこに何が生えているなどの生きるためのさまざまな知恵や知識を総称してドリーミングストーリーと呼ぶ。そのなかには星に関する物語や風や岩などに秘められた歴史も含まれるし、病気になった時の癒し方や薬の作り方などもすべてこと細かに語られてきた。

日本でも縄文の歴史は1万年もあったらしく、出土された遺跡や土器からみると人間間の戦いはほとんどなかったようだ。

文明という字は「文に明るい」と書くが、確かに書き言葉で残された文明のほうが歴史が短いというのは興味深い。また文化という字も「文が化ける」だが、書き言葉で表せれば表せるほど、その文化の化け方つまり変わり方も激しい気がする。

最近、少しだけ英語学校に行っているのだが、英語には男性名詞も女性名詞もまったくないし、敬語も丁寧語も日本語ほどにはない。そのため、時に英語を使ったほうが対等な気がすると思っていた。しかしたとえばslave(奴隷)という言葉を学んだ時に、教えてくれた先生が白人だったので「誰かに所有されてタダで働く」というふうに定義された。私はその定義に違和感があり、「暴力で命を脅かされながらただ働きを強いられると言うべきではないか」と言ってみた。しかし「奴隷たちのなかには自分の状況がまったくわからないために、人間的な所有者に所有されることによってそれほどひどい目に遭わなかった人もいる。それにこれはシステムであって、常に暴力とともにあったわけじゃないんだよ」と言われた。

その時は、奴隷制の所有者の側にいる白人の人と言い争いをするよりは、とりあえず自分の考えを表現することができたということで満足することにしたが、ことほど左様に言葉というのは支配者側によって多く所有されているのだということに再々気がつけた。

言葉自体が支配する側の人によってつくられ、それを教育ということで正義のように伝えられてきたわけで、その言葉のありようを考えながら今の地球の環境破壊や未来の子どもたちのことを考えることが必要だと思うのだ。

つまり、英語や中国語やスペイン語など支配的な言葉の陰に毎年毎年多くの地域や村、部族間の言葉が失われている現実がある。壮絶な環境破壊のなかで、その状況を伝える言葉さえも破壊されつつあるという二重三重の苦難をよく見る必要がある。

私たちは人類も含めて今地球に生きるすべての生き物の未来をどれだけ守り抜き、どのような地球を次の世代に手渡していけるのか、本当に本当に真剣にならなければならない。

娘のこと

娘が5月で16歳になって、ますますしっかりと自分の意見も言ってくれるし傷ついた感情を吐き出す場所もしっかりととってくれるようになった。そして、自分自身の気持ちを聞いてくれる人を自分で、その聞き方を教えるクラスを持ってもくれている。

この世界を見たときに、どうやって希望を持ったらいいんだろうと私が弱気なことを言ったときに、「遊歩、まず明日をみようよ。明日に希望があれば、まずそれで十分と思っていいよ」と素敵なことも教えてくれた。しかし、もちろん彼女自身も色々と落ち込むことはあって、特に将来の進路については悩むらしく、「うみちゃん、こないだまず明日を見ればいいって教えてくれたよ」と言ったら、「そんなこと言ったかな。まあそれができればいいよね」と軽く言われたりもする。

最近はたまに足が痛いと言うので心配になると、「ゆうほの心配しすぎは余計痛みを増すことにつながるから心配しすぎないでね」とくぎをさされる。

私の母は66歳で死んだ。あまりにも早い死にずっと泣き続けてきたし、今でも母のことを思いだせば滂沱の涙となる。その私の辛い気持ちを娘は十分知っているために、娘のほうも私の痛みや健康を深く慮ってくれる。「遊歩長生きするんだよ。」としょっちゅう励ましてくれるし、目が痛いと言えば、「横になってていいよ」とか、「目をつぶってて」とか色々提案してくれる。16歳のときに私はこんなにも母を気遣えていただろうかと思うと、娘の賢さと優しさが本当にうれしくなる。何より賢さや優しさだけでなく、その対等性が何よりも心地いいのだ。

性の問題も赤裸裸に語り合えるのが本当にうれしい。最近は友達たちの影響もあってか、「正直に言えば早くバージニティをなくしたいんだ」とか、「私が生まれてからもたけさんとはしょっちゅうしてたの?」とか率直に聞いてくれる。何回かは「いや~そんな話を親と言えるなんて、本当にうみちゃんは幸せだし、私はいい母親だ」などと的外れな応対をしていたが、ある日まじめに、真剣に答えなければという質問を言われた。「遊歩は身体が小さくて、セックスをするときに怖かったり、大変だったり、ということはなかったの?」というものだった。そのときには気持ちの中で襟を正し、「そうだよね。うみちゃんも私も骨ももろいし、その上身体も小さいし、怖いよね。だからこそ、私は最初から勢いや好奇心だけでするのではなく、本当にうみちゃんの身体を丁寧に優しく考え、楽しくコミュニケーションできる人とめぐりあってほしいと思っているよ。うみちゃんのお父さんとのセックスはその理想に近いものだったから、うみちゃんも幸せに生まれたんだと思うんだ」と答えた。

私の母は昭和3年生まれ、双子として生まれた。彼女が育った時代は、女は完全に子産みの道具で祖母は7人の子どもを次々と産んだ。父の側の祖母も8人の子どもを産み、49歳で亡くなっている。母にとってのセクシャリティや性行為は一体どんなものであったろう。私の記憶としてはないが、絶対明らかな事は私が受精したときのセックスも、そして兄も妹も父がかなり酔った上でのセックスであったろうということだ。この時代であれば、夫婦間レイプというようなものですらあったのではないかと思うが、母はその行為を許すだけではなく、私たちの人格を完全に別なものとして認識し、最高の愛を私たちそれぞれに注いでくれた。父親のアルコール依存のその人生を思うと、切なくもなるが、この社会では父親の酒量ではアルコール依存とは認識されないらしく、その認識のなさは私たち家族を少なからず苦しめた。その苦しみのひとつが私が受精したときにもあったから、そのため私は長い間、男女間の性を心から肯定的には見れなかったのだと思う。

娘の父親、つまり私のパートナーはまったく酒も飲まず、私との間で養子の子でもひきとって育ててもいいというほどに子ども好きの人だったので、性の場面ではいつでも子どもは責任を持てるときまでは、作ってはいけないという点において非常に慎重だった。しかし私は幼児期にたくさんのレントゲンをとられていたために、子どもができる身体ではないと思い込んでいたので、彼の慎重さに対して、こう答えていた「残念ながら絶対子どもはできない身体だから、養子縁組を考えよう」それに対して彼は真剣に答えてくれたし、私の身体に対しても誠実で優しかった。

私にとってのセックスは思いっきり走ったり、泳いだり、スポーツで身体を使って感じる喜びを感じられない分、性の場面で喜びを感じたいと思っていたほどに大切なものだった。しかし、彼に会うまでは様々に傷ついた感情ですっかり楽しめるということはほとんどなかった。娘が質問してくれたように常に頭のどこかで身体をかばったり、無力感や不信感や罪悪感をどこかで抱え込んだりしながらのセックスだった。しかし、娘を受精したときのセックスは自分が母親の子宮の中で受精したときのセックスともまるで違って、本当に喜びに満ちたものだったと思いだせる。彼の優しさ、誠実さの中で心からくつろいで、自分の身体が幸せに満たされたことを覚えている。その数ヶ月後に娘を妊娠した事が分かったときには、あのときのセックスで妊娠したに違いないと了解できた。

娘が16歳という年齢で自分の身体に対する様々な思いが錯綜する中で、娘にとっての幸いは、その母と父がすばらしいひと時の中で、彼女の生命の誕生を見たということだろう。

私は遺伝的障害を持っているが故にこの社会からは子どもを持つべきではない、それどころか性については見ても、言ってもいけないという眼差しを様々に受けてきた。しかし、娘は私と同じような身体の状況を持ちながら、私が感じてきた抑圧からはほとんど自由に、子どもがほしいことも、性行為に興味があることも、明るく言いまくっている。私と娘の二人三脚で、少しずつはいい社会を作っているに違いないと思えるのが嬉しい。

親権の問題について

親になってからこの社会が子どもにとってどんなに厳しい世界か、残酷なシステムがいかに多いかということに気づいてきた。たとえば教育や医療のシステムなど、感じること考えることがいっぱいある。今日は特にそのなかでも親権の問題について考えていることをまとめたい。

私の友人たちは、女性も男性もずいぶん離婚経験者が多くなった。おとなであれば、離婚ということで2人の関係を清算できるが、子どものほうは親が離婚した時から大変な問題に直面させられる。これは今まで一緒に暮らしていた父親母親のどちらかの許可がなければ、ちょっと顔を見ることすらできないという基本的人権にかかわる問題だ。

私も法的には離婚経験者であり、彼との関係は今では事実婚の別居だ。そもそも結婚というシステム自体が日本ではセクシズムと障害者差別のありようがあまりに強いので、初めからそれを選ばずに同居を始めた。しかしいろいろな事情があって、一度は結婚してみるのもいいかという好奇心もあり、彼が私のほうの名字に変えてくれるということもあって、3ヶ月間だけ法的な結婚をした。しかし、自分の名前を変えないことがあまりにも結婚というシステムの不平等を見えづらくしてくれた。逆に名前を変えた彼のほうがいろいろと大変そうだった。またその頃、結婚している人とつきあっている友人がいわゆる婚外子を産んで悩んでいたこともあり、やはり結婚というシステムがどんなに差別的かに嫌気がさし、彼に頼んでペーパー離婚をした。生活形態はまったく変わらなかったので、片親親権や共同親権の問題はその時にはほとんど見えていなかった。

その問題性が自覚されたのは、父親たちのグループが立ち上がって以後のことだった。今ではそのグループには父親だけではなく、女性もいて、子どもに会えない理不尽さと非人間的状況をともに訴えている。最初はシングルマザーの友人たちから、ドメスティックバイオレンスやセクシズムが強い日本のなかでは、この片親親権という制度がどんなに重要かということを聞いていたので、あまり共同親権の重要性を考えられなかった。しかし、父親たちのグループのなかに非常に親しい友人が加わることとなり、その彼からしょっちゅう話を聞くたび、これは両親の問題というより、そのなかで板挟みになっている子どもの権利の問題だということをしみじみ自覚するようになった。

私の娘にとっては、彼はあまりにも大切なお父さんであるから、私は彼に会わせないという権利は自分にはまったくないと思っている。DVを受けた母親たちにとってみれば、子どもの命を守るためには会わせないことも必要だという気持ちになるのはわかるけれど、それ以上にわかるのは私にとっては子どもの気持ちだ。私は自分が子どもだった頃に医療関係者との闘いのなかで自分の主体性というものをかなり培ってきた。あの時の闘いはいつも私のそばで医者に向かって頭を下げてくれる母親がいてくれたからこそできたのだ。

もっとも、頭を下げる母親に「弱虫! 私とともに闘え」とさえ思っていたから、今考えてみれば本当に完全に私の味方として立っていてくれた素敵な母親であったのだと思う。つまり、何を言いたいかというと、子どもは完全に別個の人格なのだ。その人格をもった存在である子どもに自分の命の出所である親に会うなという仕打ちは虐待であり、完全な人権侵害なのだ。  もちろん子どもはものすごく賢いので、いつでも会っていいよと言われる状況のなかであれば、自ら進んで会わないという選択もするかもしれない。DVのなかを果敢に立ち上がった母親に対する尊敬と愛情で、そして大好きな母親にDVをふるった父親に対する恐怖で、いくら会いに行っていいと言っても絶対会いたくないという決断をする子もたくさんいるだろう。

しかし、目の前でのDVもなく、なぜか突然のようにどちらかの親に会ってはならないと言われている子どもたちも、片親親権というシステムのなかではたくさんいるに違いない。子どもの権利というところからみれば、世界のほとんどの国が共同親権のシステムをもっていて、片親親権である国はいわゆる経済的に裕福な国々のなかでは日本のみと聞く。戦前の封建主義のなかで子どもの権利などというものはまったくなかった時代の遺産ともいうべき片親親権をやはり見直すべき時期にきているのだと思う。

子どもは正しいサポートさえあれば、おとなと対等な関係をつくり、よりよい人生を選んでいける人たちだ。だから、子どもをどちらかの親の許可がないと会わせられないと考えるシステムは、まず正しいサポートを提供していないということを強力に認識すべきだ。正しいサポートどころか、子どもは何もわからないとか、何も考えられないというふうに見なして、子どもの選択権、決定権をことごとく奪っている。もちろん私はDVに苦しんでいる女性たちが下した結論を責める気持ちは毛頭ない。ただ、ひたすらに思うことは子どもを信じてほしいということだ。女性に不利益を強いる結婚というシステムのなかで産まれた子どもたちを守ってやりたいと思うあまり、子どものもっている力を信じられなくなるのではなく、女性にとって生きがたい結婚というシステムをこそ変えるべく、あるいはそこに乗ることなく、動いていってほしいものだ。そもそも結婚というシステムの不平等性と理不尽さが見えない限り、片親親権の子どもにとっての非道さも見えないだろうから。

多くの言葉をもたないすべての子どもたちが社会の真ん中で幸せに生きるには面接交流権等が完全に保障されなければならないのは火を見るよりもあきらかだ。これは障害をもつひとへの差別を闘ってきた私だから決然といえることだと確信している。

障害を持つ子の写真について、更に。

以前、障害をもつ子の写真を脱原発のキャンペーンに使わないようにしようという文章を書いた。そのことについてたくさんの方から応援をいただき、フェイスブックの友だちもたくさん増えた。しかし、大切な友人とちょっとした誤解ではあると思うが、関係が途切れてしまったり、東京でおこなわれている抗議行動のなかでもまだチェルノブイリの障害をもった子どもたちの写真を掲げているグループがあると聞いた。

私にとってはあまりにも当然のことがこの社会からは抵抗を受けることがいっぱいある。特に差別の問題は一人ひとりの感性の問題だという見方があって、それを覆すのはなかなか困難だ。

差別の問題を語る時に注意しなければならないのは、社会的な力関係が差別する側とされる側にどのように働いているかだ。たとえば、障害をもつ子どもたちの写真のことを問題にしようとした場合、自分が差別する側に社会的な力関係のなかでいやが応でも立たされているという認識がほとんどの人にはない。もちろん、すべての人の本質は差別することもされることも絶対にいやだと思っているに違いないからだ。この問題を語る時に、人間を完全に信頼するというところから始めないと恐怖と混乱に巻き込まれてしまうので、ここは絶対に譲らないでおこうと思う。

そのうえで先にも述べたが、社会的な力関係がどう作用しているかということを見てみよう。簡単にいえば、差別される側はほとんどの場合、圧倒的な沈黙を強いられるのだ。私も子どもの頃、施設で裸の写真を何枚も撮られ、それがどのように使われているのか非常に不安だった。もし大人になった今の私の前にそれがあったとしたら、私はすぐに抗議してその使用をやめさせる。なぜならあまりに差別された痛みが堪え難く、抗議することしか自分の生き延びる道はないぐらいに感じるし、今の私にはそれをする力もある。しかしこの社会でいろんなところでいろんなふうに使われている(優生思想を強化するために)写真の子どもたちは、どのような形でも抗議する場も機会も奪われている。

これがまず差別なのだ。いやなことをされたら、いやだと言う権利がある。「そうされると傷つくからやめてほしい」と言うこともこの力さえあれば可能だ。しかし差別は多くの場合、あまりにも何気ない形でやってくるので、した方もされた方も気づきにくい。特にしている方は社会的立場が強い側にいるので(女性差別の場合、男性は強い立場だし、人種差別の場合、白人は圧倒的に強い立場だ)、自分が発言することが差別される側の人よりあまりに容易だから差別しているとは思えなくなる。差別が時に常識と呼ばれることすらあるのだ。たとえば、施設に行きたいか行きたくないかという選択権は子どもにはなく、親の事情で子どもは施設に送られる。これは私から見ればあきらかな子どもへの差別だが、子どもに障害がある場合、常識的に見て当然のこととされている。子どものためにはそのほうがいいとされているから、差別は常識と化しているのだ。

この前の文章を書いた後、ダウン症協会のメンバーからメールをもらった。「書いてくれてありがとう」ということと、「断言する」という言い方がとてもよかったという内容だった。私は自分が差別された時、いつも差別されたことの痛みを徹底的に決然と伝えてきた。そうすることで力関係を少しでも変え、彼らが差別される側の痛みに耳を傾けられるかもしれないと願ってきたのだ。私はすでに障害をもつ子どもではなくなった。しかし障害をもつことと、子どもであることへの抑圧は体が小さいために本当によくわかる。この社会は体が小さいという人に対して、その大切な気持ちをあきれるぐらい聞くことができない。障害をもつ子どもたちはこの大人中心社会のなかで、障害をもつことと子どもであることで二重にも三重にも傷つけられているのだ。それを覆すためには、私の場合、断言するという立ち方が有効だった。これからも譲れないことが起きた時には、断言し続けたいと思うが、それは私の障害をもつ子どもたちへの心からのエールであるというふうに聞いてほしい。

差別的キャンペーンを止めよう

放射能が破壊するのは、命だけではなく、身体の作りも破壊してしまうということを伝えたいための、障害を持った子どもたちの名前もない写真の羅列があちこちに最近よく見られます(名前があってもまた非常に酷いと思いますが)。

でも、それは本当に間違った行為です。なぜなら放射能が破壊するのは、身体の作り以上に人の心なのです。命に関する鈍感さと、人間の尊厳に対する無視、冒涜によって、人の心と人との関係を徹底的に破壊していきます。

私自身、いわゆる人と違った身体を持っていたために、病院で何度も何度も裸にされたり、あるいは服を着たまま写真を撮られました。名前の無い私のその写真が、どこにどのように使われるのかと不安で十代の頃は夜眠れないこともありました。

ですから、奇形という言葉も、先天性異常という言葉も、(この写真の説明文にもたびたび使われていますが)心にナイフを突きつけられたような辛い気持ちになります。

十数年前に、私のそうした思いを理解してくれる水頭症の子どもさんを産んだ女性に会い、障害を持って生まれるのが全く悪いのではなく、障害を持った人と共に生きられない社会が次々に残酷な差別を生むのだと、意気投合しました。

障害をもった子どもたちの写真を見た時に、いつも思いだしてほしいのは、この子どもたち一人一人に名前があり、家族があり、それぞれの人生があるということです。

放射能が怖いということを彼らの身体の写真を使ってキャンペーンするのはやめようではありませんか。放射能があってもなくても、人類には一定程度の障害を持って生まれてくる人が歴史上存在してきました。もちろん、この環境汚染でその割合はどんどん高くなってきているかもしれません。だから環境汚染を止めなければならないという短絡的、差別的思考や行動のありようを止めない限り、環境破壊は止まりません。

もう一度繰り返します。一生懸命生きているにも関わらず、名前のない、家族の思いも知らされず、一般の人とは違った体つきを持つ子どもたちの写真を、放射能は怖いものというキャンペーンに利用するのは、完全にやめていきましょう。そうすれば、どの人の人生も素晴らしいという、尊厳に満ちた社会の創造を少しでも近くに出来ると信じています。

福島市での女子マラソンの開催をやめてください。

11月13日頃に私のふるさと福島市で、女子マラソンの大会があるとき聞いた。

子供たちの命に対するあまりの攻撃に呆然として三日、四日暮らし、思い直してこれを書く事にした。

私は生まれて40日目から約二年間注射で、男性ホルモンを投与され続けた。

その間の記憶は無いがその後の私の記憶では多分、私の命に対する攻撃のあまりの残酷さ故に、さまざまな小動物、

つまり昆虫や金魚やオタマジャクシなどを殺しまくった。

オタマジャクシを缶詰に押し込んでグチャグチャとかき回したり、金魚の大きなおなかに指を突っ込んで

内蔵を取り出したり、兄と妹には何という子だと気味悪がられていたに違いない。

しかし小さな私はこれらの行為を通して、『ライフスレトニング(命に対する脅迫)』が日常的にあるんだという事を訴えていたのだ。

つまり何をいいたいかと言うと女子マラソンを開催する人たちの精神状態についてだ。

自分より力がない十代の若者たち(それも女性ばかり!!)の命に対してここまで鈍感に

そして傲慢に窮地に追い込めるには、どんなそれぞれのライフスレトニングがあったのだろうか。

戦争に行った人たちは、自分のした事に対する謝罪したり反省したりする間もなく高度経済成長を突っ走ってきた。

その途上に誤った原発政策もあり過ちの上の結果として原発事故があった。

その間違いを正すにはこれから多大な時間もエネルギーもかかる事は必定だ。

しかし女子マラソンの開催ぐらいはこれ以上の惨禍を招かないために止める事が出来るはずだ。

私たちは、ナチ収容所の監視人の如き役割を完全に下りて、若者たちと手を取り合って美しい地球を守り、

つぎの時代を彼らに手渡して行かなければならないのだから。

「内部被曝の脅威」を読んで

「内部被曝の脅威」という本を読んでいる。

2005年に書かれたもので、福島原発事故の話ではなく、広島と長崎の原爆の話と劣化ウラン弾における内部被曝のことが中心だ。

にもかかわらず、福島の事故が起きるを想定したかのように書かれていて、内部被曝についての認識が非常に深まった。それと同時に、明らかになったことが一つある。

以前から、唯一の被爆国である日本がなぜ、原発を54機もつくってしまったのか非常に疑問だったのだが、広島長崎に原爆が落とされた直後から、ABCCという原爆障害調査委員会がアメリカから広島に送り込まれて、治療はいっさいしないけれども原爆症で苦しんでいる人から様々なサンプリングを行い、ひどい人は、死亡時に親指しか家族に返されない、というようなことが行われていたという。

同時に、被ばく体験のことを語ることや、医者や研究者がそのことについて研究したり資料を集めたりすることは、全く禁止されたという。

この本を書いた肥田さんも、実際に追いかけらたり、あるいは患者さんの多くが語ることを許されないで死に絶えたことを見ているのだから、その圧力はどんなにか酷かったであろう。

その上、被爆者に対する差別や偏見がひどくて地元にいられなくなり、大阪や関東に逃げた人も多かったという。

そんな状況の中で、3月11日に爆発した福島第一原発がアメリカの凄まじい売り込みの中でつくられた。

つくったGEの人たちが、すぐに欠陥商品だと気づき、何度か修繕を訴えたそうだが、それも聞かれることなく3月11日の地震と津波の中で、一号機は暴発し、二号機三号機四号機も次々にメルトダウンしていった。

この本の著者の一人の肥田さんは、内部被曝に関する資料や研究があまりに無いために、その恐ろしさがほとんど伝わっていないが、現実に広島長崎の原爆や劣化ウラン弾の数年後、数十年後で、様々な病気が発症しているのだから、内部被曝は恐ろしいのだと書き綴っている。

私もこの本を読むまでは、こんなに恐ろしいものだとはしっかりとは認識していなかった気がする。しかし、今は認識よりも先に現実の方が凄まじくて、その現実が数年後、数十年後に更にまたどんな現実を見せるのかと思うと、最後まで本を読み通せるのかどうか、自信がなくなる。

しかし、一つだけ言いたいことがある。被ばく三世の障害を持つ子のお母さんと最近話して非常に意気投合したことだが、どんな形で生まれようと、生きているというその一点で、命はすばらしいということだ。被ばくをすると障害を持つ子が生まれやすいから被ばくを研究し、そして出生前診断を発達させ、障害を持つ子を産まない社会を作ることは、本末転倒だ。それこそが世に常識としてはびこる「優秀な人間だけが生き残るべき」という優生思想に寄与し続ける発想なのだ。

命は生きているというその一点だけで素晴らしい。どんな命も周りの命とつながりあって生きていくことができる。そのことを何度でも繰り返し言いたい。遺伝子に傷がついて障害を持つ子が生まれるから放射能汚染に反対するのではなく、命そのものが脅かされるから原発をはじめとする環境破壊に徹底的に破壊を止めていきたいのだ。環境破壊を止め、調和とバランスを探っていく鍵を私たち障害を持つ子、そして障害を持つ人たちが握っているといっても過言ではないということを強調したい。

くにたち市議員への原発に関する手紙

先ほど、私が住む国立市の市議会の皆さんに、お願いのメールを書きました。
このメールは、誰にでも回して良いので、福島県の中の統一地方選挙を延期するために使えるところは使って下さい。

私たち人類の危機であるところの原発事故を自覚している全ての皆さんに、役立ててもらえれば嬉しいです。

このブログにある原発事故に関する全ての情報は、役立ててメーリングリスト等に流して下さってかまいません。

 安積遊歩

**************************

ご無沙汰しています。安積遊歩です。

私の郷里は福島市で、原発事故発生の場所から約80キロも離れていながら、今でも通常の270~300倍の放射能に汚染されている地域です。
そこに、たくさんの家族や親戚、友達が住んでいます。
そのような状況の中で、福島市議会の全会派が一致して、統一地方選挙を遅らせて欲しいと言ったにもかかわらず、国は原発事故の状況に注目を向けないようにと言うことなのでしょう、統一地方選挙をやると言っています。

福島市で共産党で働いている友人は、あまりの国の非道さに、なんとかそれを止められないかと、走り回っています。
県議会選挙は遅れることが決まったというのに、なぜ高レベル放射能に汚染された福島市で、国はやるといいはっているのでしょうか。
それどころか、原発事故の災害対策に懸命に走り回っている行政の人たちにとにかく選挙はやるのだと、説得しようとしているというから驚きです。

今、原発事故の状況はほとんど報道されていませんが、昨日も送電線が回復して順調なはずの二号炉と
世界中が危険と言うことで撤退したMOX燃料を使っている三号炉から白煙が上がりました。
メルトダウンはすでに確実に起こり、収集のつかない混乱の中で、8000メートル級の爆発もいつ起こっても
おかしくない状況が続いています。あまりにも本当のことを言わない政府やマスコミに私たちはすぐにだまされそうになりますが、原発のことをよく知っている方ならその可能性は全く否定しないでしょう。原発は少しも安全ではないし、今実際事故が起き続けている状況の中で、考えるべきは、それにどう立ち向かうかです。日本中の人が一致して、この危機を乗り越えなければならないのです。統一地方選挙は延期して、まず私たち日本に住んでいる人々の命を原発事故から守ることを早急に考えなければなりません。それ以外に、今やるべきことはないと、私は断言します。

チェルノブイリが起きたとき、私たちは1万人規模の大反対集会をすぐに開きました。しかし、今回は震災と津波のあまりに悲惨な状況のために、そこに回るエネルギーもないようで、このように重大な原発事故が起こっているのにもかかわらず、人々は沈黙し続けています。海外の友人からは、毎日のように焦りの声が寄せられています。なぜならこの事故が海を汚染し、空を汚染し、他の国の大地をも汚染することは、私たち日本人よりも海外の人のほうが、チェルノブイリの教訓からよくわかっているのです。

私は原発が出来た当初から出来る限り反対運動をしてきました。
11カ国の大統領や首相に手紙を書いて外圧をかけてくれと書いたこともあります。
返事をもらったのは、カナダ・ニュージーランド・オーストラリアの3か国だけでしたが、大統領や首相から
日本の一個人に返事を書いてくれるその誠実さに驚いたものでした。
しかし、そうした国々の誠実さと比べて日本は驚くべきことにこの緊急な状況の中でさえ、統一地方選挙に注意をそらして、命に向き合おうとしないのです。
もう原発のこれ以上の爆発におびえながら暮らすのはうんざりを通り超して、精神的にもたえられない思いです。

すでにチェルノブイリの原発を押さえ込んでいるプツマイスターコンクリートの使用も考えなければならない状況で、作業員もホームレスの人たちの中から、どんどん集められているという話も聞いています。
このコンクリートは幅5〜10メートルで、そんな厚さであっても、また15〜20年たったら、すさまじい核分裂のために劣化し、塗り直しを考えなければならないそうです。
統一地方選挙は日延べして、今はただ原発事故をとめることに全ての人の、そして特に政治に関わる人のエネルギーを集中することを求めます。
なんども繰り返しますが、これは人類の一大事であって、日本一国、都議会、市議会のレベルに今はエネルギーを割いている場合ではないという、強烈な自覚をお願いいたします。

日本政府は第二次世界大戦当時のような大本営発表を繰り返し、マスコミはそれをほぼ鵜呑みにして
記事を書き立て、こんな大事故を起こしながら、原発政策の大転換はまだまだ話し合いの俎上にも上がっていない悲惨さです。

共産党の皆さんも、関口さんも、私は非常に人の命を大事に思う方たちと信じております。
とても私は今、こうした状況の緊迫感からよくものを考えられる状態ではないことを自覚しています。
その自覚の中から、ただ一つのお願いはこの原発事故が止まるまで、無駄な争いは避けて、全市民、全国民、全地球民一丸となって、注目を福島に向けてほしいということです。たとえ、事故は止まっても、その後の莫大な被害、放射能汚染にも私たちは立ち向かわなければならないのです。エネルギーはそのために使いましょう。
原発の事故が収束するまで、無駄な争いはいっさいやめてください。統一地方選挙は日延べして、東北の人々の命、私たちの食べ物、きれいな水を回復するのに力を尽くして下さい。それが私たち大人の次世代に対する責任であり、私たちの知性に基づいた行動です。

被曝に対する、天然塩と味噌の力。

私は昔から、玄米を食べ、味噌とか塩とかが原爆症にとってすごく効果があるということを知っていた。
長崎の秋月医師の文章が知り合いから回ってきたので、
ぜひみんなに、そして特に福島原発の近くに住む人に読んで欲しいし、回して欲しい。

幼少期にレントゲンを浴び続けた私が、玄米や味噌や天然塩のおかげで体質改善をし、
娘を産んだ。

絶対、食べ物の力は大きい。

何よりも私がモデルだ。

**************************

「原爆で被爆しても、被害の出なかった人たち」
8月9日に長崎に原爆が落とされ、その爆心地から1.8kmしかはなれていない場所で被災したにも関わらず、原爆症が出なかった人たちがいる事実について、何が被爆した彼らを原爆症から守ったのか、ということについて説明になると思いますので以下引用いたします。

1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。その爆心地から、たった1,8kmのところで、当時聖フランシスコ病院医長であった秋月辰一郎博士と病院関係者は全員被爆した。博士は焼け爛れて痛がる人々に、「水を飲んではいかんぞ!」と大声でどなった。
おそらく直観的に、血液の濃度を保ち、血液を水で薄めることなくガードしようとしたのだろう。(注)(確かに戦地で傷の深い重症の兵士に水を飲ませるとすぐに死んでしまうという記録がある。)
さらに博士は、次のように職員に命令したという。

「爆弾を受けた人には塩がいい。塩辛い味噌汁を作って毎日たべさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖はぜったいにいかんぞ。」(秋月辰一郎著「死の同心円ー長崎被爆医師の記録」講談社・絶版)

「放射線宿酔」と呼ばれる、レントゲンを受けた後に起こることがある全身の倦怠や頭痛などの症状には、体験上、生理食塩水より少し多めの塩分を含んだ水を飲むとよいということをとっさに思い出し原爆の放射能から体をガードするには、塩が有効であることを推測したのだ。味噌汁の具はかぼちゃであった。後にわかめの味噌汁も多くとったらしい。

砂糖を禁じたのは、砂糖は造血細胞に対する毒素であり、塩のナトリウムイオンは造血細胞の活力を与えるという、彼自身の食養医学によってである。

するとどうであろう。そのとき患者の救助にあたったスタッフらに、原爆症の症状がでなかったのである。
普通なら、次第に進行してしまうところなのに、彼らはそれから後ずっと現実に生き延びているのである。
このことは私には大きなショックであった。

食というものによる、見かけからはなかなかわからない「体質的な強さ」というものの重い価値を知り、驚嘆した。
ちょっとした体質のガードが、明らかに生と死を分けているからである。

博士は人間の体質にとって、味噌が実に大切であることを説き、のちにこう語っている。「この一部の防衛が人間の生死の境においてきわめて重要なのである。」(秋月辰一郎著「体質と食物」クリエート出版)

博士の書いた「長崎原爆体験記」(日本図書刊行センター「日本の原爆記録」第9巻)という本の英訳版が欧米で出まわり、チェルノブイリ原発事故の後、ヨーロッパで日本の味噌が売れたということはあまり知られていない。(中略)秋月博士は、「体質医学」の大切さを主張し次のようにいっていう。

「それは、人間の体質を作りかえることが医学の本然の姿であるという信念による。人間の体質を作り変えて、病気にかからなくてすむ身体、また病気にかかっても軽くて治る身体になることである。」

玄米・塩(食塩ではなく、天日塩)、味噌、梅干、海藻、糠漬けなどの漬物、日本の伝統食が自分の身をまもることになります。

Home

Search
Feeds

Return to page top